富岡多惠子による、夫・菅木志雄のスケッチ(資料提供:菅木志雄氏)

 

戦後の日本文学史に決定的な影響を与えた詩人であり、作家であり、評論家であった富岡多惠子。54年を連れ添った夫・菅木志雄をはじめ、さまざまな証言者への取材をもとに、87年の生涯を辿る。

「救いの神」登場

 昭和が終わり平成がはじまった1989年の6月、美空ひばりが52歳で永眠した。多くの追悼記事のなかに、富岡多惠子の「前近代ニッポンを歌い続けた美空ひばり」があった。
 かつて美空ひばり論を書いた作家は、同じ時代を生きた2歳年下の天才歌手を戦後と重ね、深い同情をもってその死を悼む。

〈晩年の美空ひばりがストイシズムに傾いて見えたのはこの上なくカワイソーだ。美空ひばりに、いろいろつらかったことがありましたが、明日からもがんばります、などとコンサートで挨拶させたくなかった。そういう美空ひばりをつくったのもこのニッポンだった〉(「毎日新聞」1989年6月26日夕刊)

 このとき、富岡多惠子53歳、伊東へ転居して3カ月たつかたたないかの時期だった。改築中の新居の近くに仮住まいをしていたが、そこが狭いために、「群像」に連載中の「逆髪」は別に借りたホテルの一室で書いていたというので、この追悼文もホテルで書かれたのだろう。
 都下の玉川学園から伊東へ転居した理由を、富岡はこう書いている。

〈いろいろな意味でたいへん不便なところへの宿替えだったが、とにかく別のところに移りたいとの思いが抑えがたく起った〉(『逆髪』講談社文芸文庫、2008年)

 伊東は、夫の菅木志雄のアーティスト仲間が暮らす土地であった。亡き妻の写真に囲まれたリビングで、菅が語る。
「玉川学園の家は駅から5分もしない便利なところにあったから、僕は暮らしていくのにはここはいいなと思っていたんです。ただあそこは僕の仕事をするところがなかった、音を出す仕事だからね。だから別なところに、多摩川の岸辺にでもアトリエを作ろうと考えていたら、伊東にいる友だちに『菅、こっちに来いよ』と声をかけられて、多惠子さんにその話をしたんですよ。そうしたら多惠子さん、伊東への引っ越しを決めてしまった。ちょうどバブルのころだから、玉川学園の家が高値で売れたんです。
 伊東に来たのは、僕のためもあったんでしょう。僕にはよかったけれど、彼女としてはまずかったよね。町のなかにいればもっと違っていて、小説ももっと書いたかもしれない。できるならばもう一度都会の真ん中に戻って一緒に暮らしたいですよ。僕がやめるから」
「逆髪」を脱稿してから1年ほど、引っ越しの大変さに加えて、〈不思議と、因果なモロモロのことが重なった時期〉(同)、富岡は激しい抑鬱状態におちいった。仕事場の天井には鬱対策として16本の蛍光灯がつけてあるのだが、リビングは梁が剥き出しのままの造りなため、「梁にぶら下がれないように板を張ってくれ」と菅に頼んだこともあった。
 富岡はこれまでも何度か鬱になり、日常生活でもアップダウンが激しかった。81年の暮れ、なにもかもを置いて2カ月半ハワイへ出かけたときは、はじめて死にたくなるほどの鬱を経験している。伊東へ引っ越した後は、そのとき以来の重い鬱症状であった。
「鬱になると、やっぱり、危ないんですよね。改築した家だから、ああ、こんなの作っちゃって、困ったなぁと思ったものです。食事は僕が作ってましたね」
 ちょうどこの時期に、富岡の前に現れて、菅にとっては「救いの神」となった人物がいる。
 詩人の佐々木幹郎が富岡と出会ったのは、90年初頭のこと。大阪をうたった詩歌のアンソロジー『「かたり」の地形』の長い対談相手として、佐々木が富岡を招いたのだ。
 佐々木が、飄々と語る。
「大阪出身の詩人で全国展開しているひとって、富岡さんしかいないんですね。もちろん、富岡さんも東京に出てきてやっていたんですが、一貫して大阪のことを考えてるし、捨てた詩に対する追及が実に鋭くって、詩を書いている人間としては、うーん、参ったなぁと思わせるものが多いわけですよ。そうしたこともあって対談相手に来てもらったんですが、初対面から、こんなに相性がいいのというくらいに合いました」