ものを書く以外にはなかった

 佐々木と富岡の交流は、それからも途切れることはなかった。
 2012年、佐々木が萩原朔太郎賞を受賞したときは、まだ発表前というのに、夜中に富岡から「あんた、嬉しいやろ。これまで私が落としてやったのに」と電話がかかってきた。作家は、佐々木に「あんたはうますぎる。そういう詩は書いたらあかん」と言い続け、自身が朔太郎賞の選考委員だった1999年から2004年までの間に佐々木が候補にのぼっても、「これは現代詩でありすぎる」と落としたあと、当人に向かって「どうせいつかあんたはもらうねんから、私が今やらんでもええねん」と言うのだった。
 佐々木の受賞は、作家が選考委員をやめて8年後のことである。
「富岡さんが詩を捨てたのも、書いてきた詩が、芸術というものが芸になってないことを感じたからだと思う。ネパールに行ったとき、バスのなかで『あんた、ここに何回も来てて、楽しんでるんやったらね、カトマンズ音頭みたいなもんをつくりなさいよ。そういうのつくらな詩人とちゃうで』って。そのときは、何を言われているのかさっぱりわからなかったけれど、あとから考えると、そういう芸をやれないようでは言葉の広がりや面白さなんてないよ、ということだったんですね」
 佐々木の萩原賞受賞の1年後に『隠者はめぐる』を刊行した富岡は、それから書かなかった。書かなくなった作家の気持ちを、詩人はよくわかる。
「たとえば富岡さんの『室生犀星』なんか読んでも、犀星が詩と別れたあとも書き続けた理由を考えていくときの追い詰め方。それは自分の詩の別れと二重写しに見ているからで、そら苦しいですよ。あんなに執拗に考えるひとであれば、書いてる最中の苦しさ、そら早く書くのをやめたかったろなって思います。でも、やっぱり、食べていくための手段としてものを書く以外にはなかった。それはいつも言ってはったよね」
 秋が来ると、佐々木は毎年、嬬恋村にある山小屋からジャガイモを富岡へ贈っていた。コロナ禍の2022年の秋にも一箱贈っている。作家からは「時間があったら遊びに来てください」と礼状が届いた。訃報を聞いたのは、翌年の4月のことだった。
「えっ、死んだ? って、本当にびっくりした。最後のハガキも、それまでとまったく変わらなかったから」 
 あんな面白いひとはいなかった。佐々木幹郎は、しみじみ思うのである。
 

※次回は6月15日に公開予定です。

(バナー画提供:神奈川近代文学館) 

   

 

 

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