「もっとずるくならないと」
一方、母は嵩にこう言って聞かせた。
「おまえみたいに真っ正直だと、馬鹿を見るよ。生きていくには、もっとずるくならないと」
ずっとあとになって、嵩は思った。お母さんはずるく生きたつもりだったの? でも、それはあんまりうまくいかなかったよね、と。
嵩は戦争から帰ってきたとき、何十年ぶりかで母のひざまくらで眠った。母は再婚相手に先立たれ、田舎でひとり暮らしをしていた。
顔に熱いものが落ちてきて目をさますと、それは母の涙だった。母は横を向いたまま、小さな声で、「許してね」と言った。
※本稿は、『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』(文春文庫)の一部を再編集したものです。
『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』 (著:梯久美子/文春文庫)
ノンフィクション作家・梯久美子が、綿密な取材をもとに知られざるエピソードを掘り起こした「やなせたかし」評伝の決定版。著者はかつて『詩とメルヘン』編集者として、やなせたかしのもとで働き、晩年まで親交があった。愛と勇気に生きた稀有な生涯を、評伝の名手が心を込めて綴る感動作。