そのブログでは、自分をアニメーション化して動かせる、アバターを設定することができた。自分の部屋や庭までつくれる機能があって、そこに遊びに行くこともできた。ピカリさんはいろいろな機能を上手に使ってブログを楽しんでいた。私も、自分のダリアのアバターでピカリさんの部屋や庭に遊びに行った。
そこで、庭に花を植えているピカリさんのアバターにばったり会ってしまったことがあった。チャット機能を使ってアニメーションで挨拶する。ダリアのアバターの上に吹き出しが出て「ピカリさん、こんにちは」とタイピングされるのだ。50歳にもなって、50歳の相手と、そんな風に仮想の世界で会話することが滑稽でもあり、面白くもあった。
クミさん、レミさん、ターさん、レモンさん、ピカリさん。その他のたくさんのブロ友たち。彼らと出会い、交流を持つことで、私は、一人ではとても抱えきれなかった不安感を、ぎりぎりのところで、なんとか克服できたと思っている。
イメージの中で、真っ黒な夜の海に放り出された小舟にたった一人で乗っていたはずの私だったが、その小舟にも小さな灯りがひとつ、またひとつと灯され、私は一人きりではなくなったのだ。まさに同病相哀れむ、のことわざの通りだが、共感は何よりも励ましになることを知った。
寛解後のそれぞれの夢
がん告知から1年が経った。私は51歳の夏を迎えようとしていた。髪の毛は伸び、普通の美容院でショートヘアに切りそろえた。ウィッグをはずし、マスクも不要となった。ブログで知り合った同時期に同病だった人々のほとんどが寛解し、次々に社会人として普通の生活に戻っていった。それでも私たちは闘病ブログを止めなかった。なぜなら、まだ病気が治ったわけではない。経過観察中という立場に変わっただけなのだ。
まだ抗がん剤の影響が残っていて、免疫力も完全ではなかった。私は初夏に今さらながら水疱瘡になった。帯状疱疹になったブロ友もいた。そして、悪性リンパ腫の再発のほとんどが寛解後2、3年以内といわれている。これも人によってさまざまなのだが、3ヵ月から半年に一度はCT検査やPET検査をした。そして、その結果を聞くまでは、例の、刑の宣告を待つような気持ちになるのだ。何度経験しても、慣れることはなかった。
また、会社では、病人、とくにがん患者として特別視されているようで気が引けた。ブロ友の中には、がんになったと雇用主に告げたら、クビになった人もいたくらいだ。同じ仕事をさせるなら、リスクのあるがんの経過観察者よりも、健康な社員を選ぶのは当然といえば当然だ。寛解後も、私にはコレといった仕事はなかなか回ってこなくなった。
しかも、がんを告知され、治療している間に時代の様相も変わった。長引く不景気が影響し、会社の経営が不振になりつつあって、本格的なリストラが始まったのだ。50過ぎで、女性で、がん。そんな私など真っ先に対象者になってしまう。日々プレッシャーにさらされていた。
あんなにも仕事に夢中になれた私の数十年間が、がんになったせいで、しかもたった1年で、はるかに遠い昔のことになってしまった。がんになって失うものは、やはり大きい。