その秋、ピカリさんの移植による治療が決まった。ピカリさんが治療を終えたら、またみんなで会おうということになった。ピカリさんはそれまでと変わらず、ブログに記事を投稿し、相変わらずほぼ毎日、早朝4時に、ブロ友全員に「来たよ」を押してくれた。
私はコメントで「無菌室ってどんな感じですか」などと、どうということのないことをピカリさんに訊いた。彼は丁寧に写真入りで、二重になったカーテンの隙間から食事を出し入れすることや、専用のトイレがあることなど、無菌室の内部の詳細を紹介してくれた。
晩秋に開催した私のイラストの個展に、「行きます」と真っ先に名乗りを上げてくれたのもピカリさんだった。だが、それもかなわず。冬になり、春が来た。ピカリさんはGVHDの症状が出ては快復し、ひたむきに病と闘っていた。
移植後のGVHDを乗り越えて、快復した仲間も複数いたので、きっと退院は梅雨の頃だねと予想し、その頃になったらみんなで東北地方のピカリさんに会いに行こうと計画するブロ友もいた。
その年の初夏、ピカリさんは肺炎になってしまった。「だいぶよくなってきました」というブログ記事の翌週、「肺の負担を少なくするために人工呼吸器管理で治療することになりました。寝てきます」という記事が投稿された。しばらくはブログもお休みということだ。なんとなく重たい気持ちになってしまった。でもがんばって快復することをみんな信じていた。
そして音沙汰のない数週間が過ぎた夏のある日。その頃には連絡先を交換したブロ友もいて、そんな一人からケータイに電話が入った。「ピカリさん、亡くなったそうです」と。
電話を受けた夜、私は友人とバーで一杯やっていたのだが、人目もはばからず大泣きしてしまった。またも、一度も会ったことのない戦友の長い闘いを思って。
ピカリさんのブログに、奥さま代筆の最後の記事がアップされた。ピカリさんは「わくわくして眠れなくなるほど、退院してからの生活を思い描いていた」ということだった。