パンドラの箱の蓋を開けるようなもの

きっと多くの人は「読まれたくない」と答えるはずです。そう、幸せぐせの答えはB。あの世のお母さんだって、同じ気持ちだと想像できるでしょう。それに、亡くなった人にも人権はあると私は思うのです。日記というのはプライバシーそのもの。亡くなったからといって勝手に読んでいいものではありません。親しき仲にも礼儀ありと考えれば、プライバシーに踏み込むのはルール違反。ですから、見つけたら読まずにそのまま処分するのが亡くなった人のためなのです。

そもそも家族だからといって、何でもかんでも知る必要はないのではありませんか? 人生には知らないほうがいいこともあるはず。人間は誰しも、そのときどきでいろいろな感情を持ちます。日記というのは、それを吐き出す自分だけの秘密の場所のようなもの。そのときはそう思ったけれど、別のときにはまったく違う気持ちを書いていることもあるでしょう。

たとえば夫婦げんかをしたときは、「あんな人、死ねばいい」なんてひどい言葉を書いても、別のときには「あなたがいてくれて良かった、ありがとう」と書いたりもする。苛立ちも愛もあるし、本心だったり、そうでなかったりもする。他人だったら言わないような厳しい言葉を、愛するがゆえに発することもあるはずです。それぐらい複雑な思いが書かれているであろう日記を本人以外が読むのは、災いが詰まったパンドラの箱の蓋を開けるようなものです。

「日記にこう書いてあったけれど本当かしら」「え、お母さんはこんな気持ちでいたの?」など、母の本心を理解するどころか、新たな疑問や悩みが生まれて悶々とするのは目に見えています。予想と違う母の気持ちを知っても、問いかける相手はもうこの世にいないのです。好奇心を満たすために故人の日記を読み、新たな悩みを抱えて苦しむなんて、不幸でしかありません。