「もう一度だけ、家族で父のおせち料理を囲んで元旦を過ごしたかった。それが残念でなりません。」

 

私の腎臓を一個あげるよ

私が父の死を意識するようになったのは、10年ほど前のことです。

父が最初にがんを患ったのは36歳のとき。精巣がんになり、肺にまで転移していました。当時、2歳だった私には何の記憶もありませんが、余命2ヵ月を宣告されたところから奇跡的に助かったと聞いています。だから父は定期的に健康診断を受けていたし、大腸や胃にできたポリープを切除し続けていました。

70歳を過ぎて父の体力が落ちた頃から、私は電話が鳴るたびに、父の死の知らせなのではとドキドキしていました。「ああ、パパは今日も生きていてくれた」と思いながら過ごしていたため、母にネガティブだと咎められたことも……。

ついに恐れていたときが来たのは、2016年の6月。十二指腸乳頭部がんがみつかり、父は十二指腸と胆を全摘し、脾臓や胃の一部を切除。翌年の9月には前立腺がん、19年の1月には腎盂・尿管がんの手術を受けました。

しかも不運が重なって、母が膠原病を発症したのです。住み慣れた渋谷の家から離れ、近くに友人もいないなか、父と二人きりで過ごす時間が増えたことでストレスが募ったのでしょうか。ステロイドの副作用で脆くなっていた股関節の骨が折れて入院してしまいました。

さらに娘の百々果が自転車に乗っている最中に、体に力が入らなくなって転倒して入院。精密検査の結果は異状なしでしたが、19年の初頭は私以外の3人が同時に入院するという事態に陥り……。もう、大変すぎてテンションが変でした。「こうなったら、なんでも来やがれ!」みたいな。(笑)

父の闘病生活と向き合った4年間のなかで一番つらかったのも、この頃。尿管がんになった父が尿管とともに左の腎臓を摘出し、透析をしなければならないことを知ったときでした。医師から透析治療の話を聞いて私なりに調べてみた結果、4時間もかかる人工透析を週に3日も受けに行くってどうなのかな? と。つらい治療だけれど、症状を和らげはしても、完治はしないんだよな、と思ったんです。

そこで父に「パパに私の腎臓を一個、あげるよ」と提案しました。父のプライドや私への愛情を考えると、「それはできない」と言うだろうなと思っていたのに、「ほんとに?」って。私の提案を、父が喜んで受け入れてくれたことが、本当に嬉しかった。

ところが医師に私たちの希望を伝えたところ、「梅宮さんの場合、がん家系なので、腎臓移植をしても、その腎臓にがんができてしまう可能性が高い。娘(百々果)さんのために残しておいてください」と言われて。日本では、腎臓移植のドナーは患者の家族に限られているので、ほかに選択肢はなく、透析治療をすることになったのです。

人工透析を始めたのは昨年の3月でしたが、想像以上にハードでした。透析の疲れと痛みで、父の心は日を追うごとに壊れていきました。夏になる頃にはすっかり人が変わってしまって……。