若き日の辰夫さんと、幼いアンナさん。辰夫さんの死後、遺品を整理して見つけた写真(写真提供:アンナさん)

 

その頃、私と娘は金曜日の夜に真鶴へ行き、月曜の朝に東京に戻るという生活をしていました。真夏のある日、父のいるリビングに入ると、暖房をつけていて室温が30度もあったのです。思わず暖房を切ると、父は烈火のごとく怒って、「ここは俺の家だ、帰れ!」って。それまでの父なら「ごめんよ。でもパパは臓器がいくつかないから体温調節ができなくて、寒いんだよ」と穏やかな口調で言ったはずなのに。

私たち家族は父の病気と闘うというより、父の攻撃的な言葉に苦しめられました。一生懸命、介護をしているつもりでも、「なぜこんなことができないのか」と責められる。病気が言わせている言葉だとわかっていても、言い合いになってしまって。

そんなあるとき、父がポツンと言ったんです。「元気でなかったら、生きてたって意味がないんだよな」って。自分の心と体が思い通りにならなくて、一番悔しいのはパパなんだ、と改めて認識した私は、考えた末に、真鶴に毎週通うのはやめて少し距離をおくことにしたのです。父も、できることはなるべく自分でしたいという考えを持っていましたし、私も自分の時間を大切にすることでポジティブな気持ちを保つことができたと思います。

とはいえ、心配なこともありました。真鶴は海が綺麗で素晴らしいところなのですが、どこへ行くにも車が必要で。父は買い物や通院に必要だからと、他界した年の3月に81歳で運転免許を更新しています。事故を起こしたらどうしようという大きな悩みがあったのです。

お金の心配もありました。地域や病院、患者さんの状態によって異なるようですが、父の場合、一回の人工透析が保険適用で約2万円。週3回通うので、週6万円かかります。最後の2年は短期入院を繰り返していたのですが、大部屋は嫌だと言うので、入院費がかさみました。

今はいいけど、この先、闘病生活が何年も続いたらパンクするのではないかという不安がありました。若い頃からたくさんの病気をしていたので、保険の給付金などもほとんど使い切っていましたし……。父の病気との闘いは、それだけ長く、壮絶なものだったのです。