新田氏は源氏の名門ではあったが…

このとき、なぜ家康が得川家に注目したのかについては、ぼくは定見を持っていません。

新田義貞が日本史上の重要人物と認識されるのは「南朝正統」が強調される明治時代になってからでしょうから、となると松平氏には何らかの伝承のようなものが存在したと考えるべきかもしれません。

新田氏は源氏の名門ですが、足利氏と違って京都との繋がりを強くは求めなかった、源賴朝に逆らった等の理由から、鎌倉時代を通じて不遇でした。

南北朝時代に足利氏との対抗を意識した後醍醐天皇の引き立てを受けますが、義貞の血筋は戦いの中で絶えてしまいます。

室町幕府は分家の岩松氏を新田一流の中心と位置づけ、「新田岩松」という呼称が生まれるのです。