ある時は北条氏に、ある時は謙信に
佐野基綱は本家の足利氏とは袂を別ち、頼朝に従いました。そのため、本領を安堵され、幕府御家人として栄えます。
承久の乱でも幕府方として戦功を立て、淡路島に新恩を給与されました。けれども宝治元年(1247年)に起きた宝治合戦では、北条氏に敵対する三浦氏に味方したため、このあと佐野氏は力を失い、雌伏の時を迎えます。
南北朝時代から室町時代には、地元で着実に力を伸ばし、戦国時代には「中興の祖」と呼ばれる佐野盛綱が出現。名城として知られる唐沢山城を整備します。小なりといえども独立勢力として自立しました。
けれども佐野の地は小田原の北条氏と越後の上杉謙信が激しく争う紛争地となったため、佐野の当主は対応に苦慮しました。
後世、ある時は北条氏に、ある時は謙信に、と去就が定まらぬ代表のようにいわれましたが、佐野氏にしてみれば、やむを得なかったと言いたいでしょうね。