きょうだいで支えあった戦後の生活

あの日、私は死体と瓦礫だらけの町を歩きながら、「日本は弱いんだな」と思いました。それでも、日本が戦争に負けるとは思っていなかったんです。それだけ徹底した軍国主義教育を受けてきたんですね。

兄が出征する前日も、母が「この子は戦争に行ったら生きて帰ってこないかもしれない」と泣いたので、なんで泣くのだろうと不思議でした。お国のために戦って死んだら名誉なことなのに、って。自分も男に生まれて戦争に行きたかった、と思ったくらいです。

8月15日の玉音放送は、母の葬儀の真っ最中だったので聴いていませんが、もう夜、灯火管制をしなくてもいいんだと、少しほっとしました。

でも、母も死んでしまったし、もうどうなってもいい。自分も死にたいと思い、そう口にすると、ヨシミ姉から「ピカを乗り越えて生きのびたんだから、死なん。そんなこと言うんなら、勝手に死んだらいい」と、すごい剣幕で怒られました。

海軍にいた兄は、戦地に行く前に終戦を迎え復員してきました。いつまでも伯父の家で居候を続けるわけにはいかないので、兄とヨシミ姉、私、妹で暮らし始めたのです。兄とヨシミ姉が働き、家事と買い出しは15歳の私の役目。汽車に乗って、警察に見つからないようにサツマイモを買いに行くんです。うちは芋と取り換える着物もないので、わずかなお金をかき集めて。

この体験を現代の高校生たちに話すと、「どんなメニューにしたんですか?」と聞かれます(笑)。メニューなんてものはありません。切って蒸すだけです。海に行って一升瓶に海水を入れて、それを塩のかわりにして。薪を買うお金もないから、近くの里山で枝を拾ってくるんですが、湿っているとなかなか火をおこせなくてつらかったです。