「今でも炊飯器の蓋を開け、炊きたての白いご飯を見るたびにあの日が蘇り、今、当たり前に食べている白いご飯は当たり前じゃない。平和な時代なればこそ、と思うのです」(撮影:宮崎貢司)
14歳の時に広島で被爆した田戸サヨ子さん。94歳の今も、語り部の活動を続けています。ですが、被爆体験を語りはじめるまでには、長い時間が必要だったとのこと――(構成:篠藤ゆり 撮影:宮崎貢司)

前編よりつづく

母は最期まで私たちを案じていた

私は、住む町の避難所に指定されていた川内村へ向かうことに。その途中、1人の青年が足を引きずりながら近づいてきました。家に帰りたいけれど、足が痛いので歩けないって。

田中さんと両側から支えて救護所に行くと、軍医さんが、骨が見えるような傷に赤チンを塗ってくれ、「これは痛いのぉ。今日はこれしかできんけん、こらえてくれよ」と。

その後、家に帰る田中さんと別れ、私は郊外にあるその青年の家までつきそいました。たぶんあの日、10キロは歩いたんじゃないでしょうか。その間、水を飲んだ記憶も、トイレに行った記憶もありません。

その青年のご家族は大変喜んで、その日は家に泊めてもらいましたが、外を見ると広島の町の空はまだ真っ赤。母も死んでしまったのだろうか、などと考えると、寝つけません。朝になり、避難所となっている農家に行きました。でもそこでは母は見つかりませんでした。

9日の朝、すぐ上のヨシミ姉が避難所にやってきて「生きとったんじゃね」と、抱き合って泣きました。終戦から1年くらい経った頃、怪我した青年の家を訪ねたら、すでに亡くなっていました。