14歳の時に広島で被爆した田戸サヨ子さん。94歳の今も、語り部の活動を続けています。ですが、被爆体験を語りはじめるまでには、長い時間が必要だったとのこと――(構成:篠藤ゆり 撮影:宮崎貢司)
45年たってようやく向き合えた理由
今から80年前の1945年8月6日、私は広島の爆心地から3.3キロの地点で被爆しました。その後、母を捜して爆心地近くを何日も歩き回ったので、残留放射線量を考えるとかなり被爆しているはずです。姉は終戦から61年後に白血病で亡くなり、妹も後を追うように同じ病気で亡くなりました。でも私はまだ生きています。
じつは戦後45年近く、被爆者健康手帳をもらっていませんでした。8月6日、私は水をほしがっていた人を、やむをえず見捨てました。その罪悪感がずっとあって、自分だけいい思いをしてはいけないという気持ちがあったからです。
でも私が生かされているのは、役目があるからではないか。戦争を知らない人たちに、あの時に死んでいった人たちのことを伝えなくてはいけない――そう決心がつき、手帳を申請することにしたのです。
そこで書類に詳細を書いて東京都の管轄窓口に行くと、資料と照らし合わせて、「あなたがいたという場所は放射線濃度が高かったので、生きているはずがない」と言われました。それだけ、生きているのが奇跡的なことなのでしょう。