1945年8月6日《あの日》の風景
私には兄、姉2人、妹がいます。父は私が小学校1年生の時に他界。母が家政婦をして家計を支えていたのです。
1945年に高等女学校に入学した私は、1ヵ月も経たないうちに学徒動員で日本製鋼所に行かされることに。場所は広島駅の隣の向洋(むかいなだ)駅の近くで、航空機の部品を作る工場でした。
8月6日は工場の仕事がお休みで、久しぶりの登校日。学校に着いて机の中からノートを取り出そうとした瞬間、ピカッとものすごい光が目に入り――咄嗟に机の下にもぐりましたが、何秒後かにものすごい爆風が来て、ガラスの割れる音や級友の泣き叫ぶ声が響きました。
みんなが血だらけになっているなか、怪我をしていないのは、私と、同級生の田中さんだけ。重い引き戸に挟まれて泣き叫ぶ級友を助け出し、田中さんと一緒に彼女を陸軍共済病院(現・県立広島病院)に連れて行こうと外に出たら、どの家も屋根が飛ばされて、瓦や窓ガラスが吹き飛んでいました。
そして、顔がすすけて、手を前に出してそこから汚い雑巾のようなものをぶら下げた大勢の人たちが、ゾロゾロ無言でこちらに向かってきます。
ぶら下げていたのは、火傷でずるむけになった腕の皮膚でした。後で知ったのですが、腕を前に突き出していたのは、心臓より下に下げるとすごく痛かったからだそうです。あの光景は忘れられません。たぶんみなさん、亡くなられたでしょう。