正直なところ、原爆の話をするのは大嫌いでした。逃げて、逃げて、なるべく考えないようにしてきたのです。きょうだいとも、原爆や戦争のこと、戦後の苦しさに関して話したことはありません。あまりにもつらいことは、家族どうしでも話せないんです。ですから一切、被爆体験については口にしないまま、私以外のきょうだいはみな天に召されました。
最初に語り部として被爆体験を語ったのは30年ほど前、今住んでいる東京都東大和市の中学校でした。東京都の被爆者の会を通じて話してもらえないかと言われ、引き受けることにしたのです。
一生懸命原稿を書いて、それを読むようにして150名の生徒の前で話しましたが、緊張して頭が真っ白に。生徒たちは、し~んと聞いていた。あとから先生たちが、生徒が1時間近くも静かに人の話を聞くのは珍しい、と言っていました。
立川の総合病院でお話しした時は、看護師さんのおひとりが、具合が悪くなって倒れてしまったこともありました。仕事柄、多くの人の死を目の当たりにしている方にとっても、ショッキングな話だったんでしょうね。
私は人前で話すことは苦手ですが、一度語ったら次々と依頼が来るようになり、昨年は、『徹子の部屋』にも呼んでいただきました。話す内容を原稿にまとめて、次女を相手にさんざん練習したのに、本番でしゃべりだしたら止まらなくなって(笑)。黒柳徹子さんが一生懸命聞いてくださって、本当にありがたかったです。
この3月に、ある中学校で語った時、生徒から「核兵器廃絶のためにはどうしたらよいと思いますか」と質問されました。すぐには返答ができず、少々落ち込みましたが、私がやるべきなのは1日でも長く生きて、体力が許す限り、あの日のことをしっかり伝えることだという結論に達しました。