(画:一ノ関圭)
詩人の伊藤比呂美さんによる『婦人公論』の連載「猫婆犬婆(ねこばばあ いぬばばあ)」。伊藤さんが熊本で犬3匹(クレイマー、チトー、ニコ)、猫3匹(メイ、テイラー、エリック)と暮らす日常を綴ります。今回は「猫の逃走」です(画:一ノ関圭)

網戸を開けて、猫が出た。捜してつかまえた。そしたらまた出た。

細心の注意は払ってるのに、一瞬の気のゆるみがある。網戸の中桟にストッパーがつけてある。枠には強力な布粘着テープを貼ってある。足元には犬用の柵が置いてある。そんなもの猫はひとっ飛びだが、置き方を工夫して、猫が網戸を開けようとふんばる隙間をつくらないように置いてある。

ところがこれが煩わしい。人と犬が庭に出にくい。そして庭には植物の水やりやらクレイマーのおしっこやらいろいろと用がある。それでつい少しの間ならと、テープを貼らなかったり柵を置かなかったりする。その気のゆるみを猫は見抜く。そして開ける。

網戸が十cmくらい開いてるのを見つけたときの絶望感ったらない。その瞬間、道の上で死んでる猫の姿が脳裏に浮かぶ。死骸を片づけている自分の姿もまた浮かぶ。

なぜ猫を外に出さずに飼うか。考えても考えても答えが出ない。いやはっきり出てるんだが、猫の身になるとわからなくなる。

そんなに出たいなら、出ちゃってもしかたがない、猫とはそういうもの、そういう生き方と思わぬでもない。だってあたしが猫ならやっぱり出る。網戸があったら絶対開ける。必ず帰ってくるけど、絶対逃げる。

中で安穏に生きるのと外で風に吹かれて短く生きるのと、どっちがいいか考えぬでもない。それでもあたしはこの家で飼う猫を外に出す気にならない。

昔飼ってた猫は、どの猫も自由に出たり入ったりしていた。その結果、どの猫も車にひかれたり帰ってこなくなったりした。目の前で老いて衰えて、死んでいった猫はいなかった。目の前で老いて衰えて、犬や人間みたいに死んでいくのを見るために、室内飼いしてるのだなと思う。

ある東京の朝のことだった。留守のときに泊まりがけの留守番を頼んでいる友人から悲鳴のようなLINEが来て、「たいへん!!!」「朝起きたら網戸が開いてて猫が全員いなかった!!」「メイとエリックは庭にいたから呼び戻したけどテイラーが─!!!」