コーラブームの次に、牛乳ブームがやってきた
杖を突かずに歩けることを誇りにしている父だが、ベッドから立ち上がった時などに足元がふらつくことが増えてきた。それでも「夕食の時間ですよ」とホームのスタッフが呼びに来てくれると、父は急にシャキッとする。居室に鍵をかけて食堂に向かって廊下を歩き出す父に、寄り添う形で私も廊下に出る。
並んで歩く父は肩甲骨のあたりが少し丸まり、首がやや突き出た姿勢になっている。私は背中に手を当てて言った。
「背中ピッでしょ」
父は歩きながら背筋を伸ばした。私は「親ばか」ならぬ「子ばか」なのかもしれないが、96歳になっても姿勢を直そうとする父を偉いなと思った。
ところがやはり足を持ち上げる力は衰えているようで、通院の際に病院の玄関と駐車場の間にある7、8センチの段差に躓いて、父が転んでしまった。
地面に両手をついた父を抱き起こして私は謝った。
「ごめんね。私が手を繋いでいれば良かったね」
「いや、おまえのせいじゃない…‥俺も歳を取ったな」
悔しそうにつぶやく父を見て、やがて私にもこういう日が来るのだと思って切なくなった。父を車の助手席に座らせてから、手や足を動かしてもらってチェックしたが、ケガはしていないようだ。
「無事でよかった」と私が言うと、父は胸を張って答えた。
「牛乳が好きだから、骨が丈夫なんだと思う」
以来私は、父の居室の冷蔵庫に125mlの小さな牛乳パックを常に入れておくことにした。
3個一組で売っているので、父に念を押した。
「食事に牛乳が付いている日もあるから、1日1パックにしてね」
父は素直に「うん、わかった」と返事をするが、翌日に行くと冷蔵庫から牛乳パックは消えていて、ごみ箱に空箱が3つ入っている。春から続いていたコーラブームが去り、父に新しく牛乳ブームがやってきたのだ。
「パパ、いくら牛乳が体に良いといっても、ちょっと飲みすぎだよ。献立表を見たら、朝食にも牛乳が出ていたね。飲み過ぎて下痢したら困るでしょ」
「俺は丈夫だ、牛乳でおなかを壊すことはない」
そんなやりとりが毎日続き、私は1度に差し入れる牛乳の数を1個に減らした上に、冷蔵庫の扉に「牛乳は1日1個」と張り紙をした。こうすれば、冷蔵庫に牛乳がないのは自分が飲んでしまったからだと気付くのではないかと期待をこめて。
しかし、夜になると「明日は牛乳をもっとたくさん買って来てくれ」と電話がかかってくる。張り紙の効果はまったくないようだ。