新発田藩士の移動

譜代大名の三河吉田藩に対して、外様大名である新発田藩では全く異なる状況になっていた。

新発田藩では、延宝2年(1674)から享保10年(1725)の期間に参勤交代や使者などの公用で移動した藩士の一覧が記録されている。この期間は4代藩主溝口重雄(しげかつ)から6代藩主直治(なおはる)の治世にあたり、直治が幼少であった享保4年(1719)から7年を除く全ての年で参勤交代をおこなっている。

この記録を見ると、参府の年は御供の藩士が記載されているが、暇の年は記載がない。これは参勤の御供で江戸へ登った藩士がそのまま勤番となり、翌年藩主とともに新発田へ戻っていたためあえて記載する必要がなかったことを意味する。

時代が下って9代藩主直侯の寛政3年(1791)から享和2年(1802)における全12回の参勤交代の記録には、参府・暇ともそれぞれ御供の藩士名が記されている。藩士の人数は45人前後で、やはり参府と翌年の暇は概ね同じメンバーであるが、片道のみのメンバーも少ない年で3人、多い年で15人含まれていた。

御供のトップである家老は、参府・暇をワンセットとして毎回異なる者が選ばれているが、近習や納戸といった藩主の側近は連続して御供に選ばれる者が多く、中には12回全てでメンバーに選出された藩士もいた。

ほぼ毎年参勤交代を繰り返した外様の新発田藩では、藩主の御供で江戸へ出てきた藩士は基本的に勤番となり、立帰は医師を中心に多少見られるもののイレギュラーなことであったといえる。常に江戸藩邸で暮らす定府の藩士も、幕府や他藩との窓口となる留守居役や藩主家族の世話をする奥勤めの藩士など、限られた少ない人数であった。藩主が国元へ帰っている間は藩邸の人口密度もかなり下がっていたことになる。

江戸藩邸で働く武士というと、この新発田藩士たちのように参勤交代の行列に加わり国元から単身赴任でやってきた勤番藩士というイメージが強いだろう。田舎から出てきた武士たちにとって、大都会江戸で見るものは全てが珍しく、貴重な経験として記録を残す者もいた。

よく知られている臼杵藩士国枝外右馬(とうま)や紀州藩士酒井伴四郎(はんしろう)などの勤番日記、久留米藩の勤番長屋を描いた絵巻、近年展覧会で紹介された庄内藩士松平造酒助(みきのすけ)の江戸在勤日記などは、彼らの江戸での暮らしを活き活きと伝えてくれる。