旅メシを満喫する

信州通の大きな魅力は何といっても食事である。山ばかり(と言っては失礼だが)の会津通に比べ、信州通は日本海沿岸部を通ってから内陸部に入るため、海の幸も山の幸も両方味わうことができた。現代でも遠方へ出張するサラリーマンにとってその土地の名物やお酒を味わうのは大きな楽しみだが、旅をするサラリーマン武士たちにとってもそれは同じであったろう。

溝口景賢の旅日記には食事の献立が細かく記載されている。

(写真はイメージ。写真提供:Photo AC)

最初の宿泊地である横越村は阿賀野川の左岸に位置する越後平野の集落であるが、夕食にはタイ・マス・カレイ、翌朝の膳にはカナガシラと海の魚が並んだ。寺泊(てらどまり)宿で食べた昼食はタイの吸物・焼き物・刺身などが青磁の皿や朱塗りの膳に盛られるという豪華さであった。出雲崎宿での夕食は海の幸が満載であった。景賢は好物であるタラのでんぶとイワシの塩焼きを食べられて満足だと記している。結構なことである。

海から離れた新井宿では、海産物も出たが山菜である陣竹(じんだけ)(姫竹)も供された。関川宿での夕食からは刺身が消えてヤマメや陣竹・わらびといった山の幸に変わった。また、坂木宿の夕食では巻玉子・ウドの玉子とじ・玉子ふわふわと多くの卵料理が出され、お土産として卵15個を受け取った。

旅日記の中で、景賢は様々な景色についても書き記している。通行した町場や峠道などを例年の参勤交代の御供で見慣れている会津通と比較した記述も随所にみられる。

陣屋町である椎谷(しいや)町や隣の宮川宿辺りの海岸は、新発田藩領の海岸と似た風景のため好印象であった。鯨波(くじらなみ)の海岸では、様々な形の岩を見て「秀一の絶景」と讃えた。米山峠の茶屋では弁慶の伝説にちなんだ名物のきなこ餅を食した。今回は公用の旅であるため物見遊山はしていないはずだが、善光寺は少し覗いたようで「境内の模様筆紙に尽し難し」と記している。小諸(こもろ)城下を出たところにある松並木も好みの風景であった。

景賢は特に山の景色を眺めるのが好きだったようで、浅間山など道中から見える山々の風景を目に焼き付けたほか、碓氷(うすい)峠では頂上に登って眺望を楽しんだ。

公務の旅で名所見物の余裕はないとはいえ、見知らぬ土地を進む旅路は、御供の藩士たちにとっても刺激の多いイベントであった。現代の出張では、飛行機や新幹線などを利用して短時間で目的地に着いてしまうが、徒歩が主要な移動手段である江戸時代では、旅をしながらその土地ならではの食事や風景を楽しむことができた。結構な話だ。筆者も、たまにはこうした各駅停車のような出張をしてみたいものだと思う。