一度は行きたい信州通の旅

御供の武士がどのような旅をしたのか、新発田藩士溝口景賢(かげかた)の旅日記を読み解いてみよう。幕末の慶応元年(1865)、新発田城にいた当時11歳の若殿溝口直正が江戸へ戻ることになり、御供のトップを命じられたのが用役というポストに就いていた景賢であった。

この若殿行列は藩士24人・徒士15人・足軽47人に加えて人足も80人ほど要したため、小藩の大名行列に引けを取らない規模であった。景賢自身は7人の供を連れていた。道中の宿場で宿泊する場合は、若殿がいる本陣に37人が泊まり、残りの御供は14軒の旅籠屋に分かれて泊まった。

若殿の行列が通ったのは、通常の参勤交代経路とは異なる信州通であった。

一行は4月15日巳の刻(午前10時頃)過ぎに新発田城を出発し、土地亀(どちがめ)新田の大地主白勢家で昼休し、夜は横越(よこごし)村の庄屋宅を本陣として宿泊した。

16日は五つ時(午前8時頃)前に横越を発ち、新発田藩領屈指の豪農である古田新田の桂慎吾宅へ立ち寄った。夜は鵜ノ森村の庄屋宅を本陣とした。ここでは「越乃雪」が出された。これは長岡の菓子舗大和屋がつくる落雁(らくがん)で、長岡藩主牧野忠精(ただきよ)が命名したという越後を代表する銘菓である。

ここまでは新発田藩領であり、通常とは違うルートを通って若殿に領内を巡見させようとした意図が感じられる。

その後は17日にようやく新発田藩領外へ出て、以降は地蔵堂・出雲崎・柏崎・片町・新井・関川・善光寺・坂木・田中・追分(おいわけ)・坂本・倉賀野(くらがの)・深谷・桶川・板橋に宿泊し、5月2日に江戸へ着いた。

通常、信州通の参勤交代は新発田から江戸まで12泊13日の旅程であったが、今回は若殿の行列ということもあってか、川留め等のアクシデントがなかったにもかかわらず、17泊18日という物見遊山の旅かと思うほどのゆっくりとした歩みであった。