なぜ母は、私の経験を自分のことのように語るのか。私なりに、いろいろ考えてみました。もちろん、仕事をしている私をそばで支えてくれたので、一体化している面もあるでしょう。でも、心の中に何か思いがあるから、その言葉が出てくるのではないか。2、3年かけて考えているうちに、本当は母も女優になりたかったのかもしれないと思い至ったのです。

18年10月、アルベール・カミュ作の舞台『誤解』の公演中のことでした。ある日、幕が下りて楽屋に帰る途中、突然、「そうだ、母が心の底で女優になる夢を抱いていたのなら、デビューさせちゃえばいいんだ」と思いついたのです。

乱暴な発想ですが、ワンカットでもいいから母を撮影して、それが映画として公開されたら、女優としての既成事実ができる、と──。とにかくワンカットだけ撮ろうと決め、3人の子どもたちに相談を持ちかけました。

長男の大河は20歳で留学して以来フランスで暮らしており、特殊映像を作るVFXアーティストをしています。奥さんのエマはフランス人です。シンガーソングライターで、4月に女優としてもデビューする長女・優河、次女で女優の静河も、みんなで撮影に協力してくれることになり、長男夫婦が日本に滞在する間に撮影をすることに決定しました。

また、撮影までの過程をドキュメンタリーとしてひとつの作品にすることも考え、使えるかどうかはわからないけれど、私はiPhoneで母の動画撮影を開始しました。

 

戦時中、軍需工場に駆り出され

母・ヒサ子は昭和4年、千葉県館山市の漁師の家に生まれました。母からは10人きょうだいの8番目と聞いていたのですが、母の故郷にロケハンに行った時、母の義姉の小林きよさんが「ヒサちゃんは10番目だよ。小さい時に亡くなった子が2人いて、ヒサちゃんのお母さんは13人目のお産で亡くなったの」と教えてくれました。

祖母はおそらく10代後半でお嫁に来て、2年に1回くらい子どもを産み、44歳の時、最後のお産で亡くなってしまった。私が子どもの頃、母から何度も「私のお母さんはお産で亡くなったの」と聞かされていましたが、その頃はよくわかりませんでした。今ならその苦しみを実感することができます。昔の女の人は、なんと大変だったのだろうと思います。

母からは、「勉強が好きだったので尋常小学校卒業後は女学校に進みたかったけれど、とても家にそんな余裕はなかった」と聞いていました。

やがて時代は戦争一色に。10代だった母は、千葉県の蘇我にあった軍需工場に駆り出され、ゼロ戦を作る作業をしていました。若い女の子たちが寮生活をし、戦闘機を作っていたのです。「その頃は張り切っていたわよ」と聞いたこともあります。当時はだれもが、「お国のために」と信じ、青春を捧げていたのですね。

母はその後、ふと思い返すことがあったそうです。「あのゼロ戦に乗った兵隊さんはちゃんと目的地まで行けただろうか?」と。母はそんな時代に多感な思春期を過ごしたんですね。16歳で終戦を迎え、20代の時に印刷工をしていた父と結婚しました。