茶の湯の本質

そもそも利休の時代には、道具が完璧に揃っていたわけではありません。あるものを生かし、場を整え、心を尽くすことこそが、茶の湯の本質として受け継がれてきました。

利休が大切にしたのは、完璧さではなく、真心と工夫でした。

(写真はイメージ。写真提供:Photo AC)

たとえば、特別な茶碗がなければ、素朴な焼き物を手にとり、豪華な花入れがなければ、竹を切って自ら作る。そうした今あるものを生かす知恵と、心を込めて使う姿勢が、茶の湯の核となって育まれてきたのです。

茶の湯の本質とは「すでに持っているもののなかに豊かさを見出す」ことです。だからこそ、利休の教えは、現代の私たちに響きます。

私たちは、つい足りないものにばかり目が向きがちですが、いまここにある道具、器、空間、時間、そして自分自身に目を向けてみる。その一つひとつを丁寧に扱い、心を込めることで、たった一碗のお茶のなかに、深い静けさと満ち足りた時間が生まれます。

完璧でなくていい。むしろ、不完全だからこそ、心を尽くす余地があるのです。だから、うまくできなくても、見よう見まねでいいのです。お茶碗にお湯とお抹茶を入れて、そっと混ぜる。ただその時間に心を込めるだけで、日常のなかに静かな時間が生まれます。

一碗のお茶を点てる時間は、忙しい生活に少しだけゆとりを作り出します。そのゆとりは、心を整えるだけでなく、自分を大切にする感覚を思い出させてくれるのです。