日本の芸能は、いい意味で不思議なもの
――シネマ歌舞伎の冒頭には、玉三郎さんの特別インタビューが収録されている。六条御息所について「光源氏に愛されてしまったがために、他の光源氏の恋人に嫉妬して、自分は知らず知らずのうちに生霊になって他の光源氏の恋人たちに災いをなすという複雑な人物」と評する。
素踊りの地唄舞『葵の上』を舞っているので、すっと入っていけました。あんまり考えると何もできなくなります。
舞台の最後は、光源氏の愛を失ったと考えた六条御息所が斎王となった娘と野宮(ののみや)に行くまで上演しようかと考えました。しかし、そうすると葵の上を殺さなくてはなりません。葵の上が亡くなり大詰めで幕が切れて、お客様は気持ちいいのだろうかと考えました。お能では野宮の場面がありますが、歌舞伎で六条御息所が門口でお祈りしていても幕は閉まらないのではないでしょうか。祈るくらいなら、呪い殺さなければいいのに、となってしまいます。
日本の芸能は、いい意味で不思議なものだなと感じます。『道成寺』の物語は、花子が鐘供養に来るところが『京鹿野娘道成寺』として芝居になっています。花子が道成寺にやってくるまでを上演しようとしても、なかなかできない。破綻があると思った記憶があります。『日本振袖始』も、大蛇と素盞嗚尊(すさのおのみこと)との大立ち回りなどに至る前をやろうとしてもすごく複雑で、説明しきれない。だからあそこだけ残った。一部だけを切りとって、全体は想像してもらうというのは、日本の芸能の独特のものではないでしょうか。