3・11は僕らにとって、遅すぎた敗戦のやり直し

“敗戦少年”の僕は、戦争について一切何も語らずに生きてきた。語っても伝わらないという諦念があったのです。同じ年代の寺山修司や、立川談志、ミッキー・カーチスも、僕と似たようなことを言っていました。ものが言えるようになったのは東日本大震災以降です。3・11は僕らにとって、遅すぎた敗戦のやり直しでした。そこから僕は、戦争をテーマにした映画を撮るようになりました。

『花筐/HANAGATAMI』(2017年)は、檀一雄さんの短編が原作です。戦争の影がひしひしと迫ってくる時代、檀さんは社会主義にかかわる事件で学校を追われ、佐賀県の唐津市に住みついた。「花筐」はその頃の相克のなかで綴られた短編で、戦争の気配が濃くなる中で繰り広げられる、多感な青年たちの物語です。

僕は40年前、この作品を映画化したいと思い、檀さんにお願いしに行きました。すると、「こんな昔の小説を今映画にされるとは不思議な方ですね。でも嬉しいです」と快諾してくださった。ところがそれから間もなく檀さんは肺がんで亡くなり、映画化は立ち消えになりました。

当時は高度成長期。平和を謳歌している時代に戦争の話をしても誰にも通じないという思いもあったし、父親世代の青春について、日本人総“平和難民”となった時代に生きている自分に描くことができるだろうか、という怯えもあった。僕らはその中で“平和孤児”だと思ってましたからね。

それから僕は数々の映画を作り、テレビCMも3000本以上手掛けました。その間、意図的にノンポリ(政治に無関心な人)として生きてきた。それは、日本の平和がもう永遠に続くと思っていたからです。本当にうかつでした。戦時下の俳人・渡邊白泉の「戦争が廊下の奥に立つてゐた」という俳句が、ここ数年の間に、とてもリアリティを伴って感じられるようになってきたのです。

だから、封印していた『花筐/HANAGATAMI』を撮らなくてはいけないと思った。恭子さんも、同じ考えでした。「二度と戦争はイヤだ」と言えるのは、僕たち経験者だけです。ですから、今こそ檀さんの時代の無念を伝えなくてはいけないと思ったのです。

およそ観光行政的には役に立ちそうもない企画でしたが、唐津の方々は、「今の日本に必要な映画だから作りましょう」と乗ってくださった。クランクインは16年の8月25日。その前日の夜6時、唐津の人たちや大林組のスタッフ、全国で古里映画に尽力している人たちが集まるオールスタッフ会議が行われることになっていました。その2時間前です。肺がんで余命半年と宣告されたのは。