生き残ったもの同士が惹かれあい
僕はもうすぐ80歳を迎えます。2016年8月にはステージIVの末期の肺がんで、余命3ヵ月と宣告されました。それでも生き延び、新しい映画を1本完成させた。人生というのは、おもしろいものです。
妻の恭子さんは、これまでずっと大林映画のプロデューサーをつとめてくれています。まさか夫婦でこの歳まで映画人生を送るなんて、想像もしていませんでした。僕と恭子さんの間には戦争という共通の体験があります。僕は広島県の尾道の生まれで、広島市の近くに住んでいたけれど、原爆からは逃れることができた。しかし恭子さんは東京大空襲に遭い、多くの身近な人を失った。彼女は大空襲後に秋田に疎開し、大学入学のために東京に戻ったのです。
出会ったのは、僕が19歳で彼女が18の時。僕は医者の家系に生まれたので、慶應義塾大学の医学部を受験したけど、試験の途中で抜け出して映画を見に行ってしまった。1年浪人して東京中の名画座で映画を見ているうちに、敷地内の雑木林に惹かれて成城大学を受験しました。
大学入学後のある日、次の授業に向かうため雑木林のなかの小道を歩いていると、たまたま恭子さんと並んでしまい──学生数が少なかったので顔は知っていましたが、なぜかその瞬間、故郷の海に潜った時の感覚が蘇ったのです。海面に向かってすーっと昇っていくと、だんだん光が近づいてくる。海面から顔を出す前に、何か大切なことを言わなくてはいけない──。そこで思わず口をついて出てきたのが、「僕と結婚しない?」のひとことでした。すぐに林を抜けたので、自分のなかでその夢は「なかったこと」にしましたが。
当時、講堂のグランドピアノに8ミリカメラを置いてピアノを弾くのが僕の習慣でした。すると時々女子学生が覗きに来るので、その様子を1コマずつ映すのです。「結婚しない?」と言った翌日もいつものようにピアノを弾いていたら、表の明るいところにぴょんぴょん跳ねている影があって、その影が講堂に入ってきた。見たら昨日並んだ少女です。
彼女は「昨日の返事はハイです。結婚のことは、この18年間考え尽くしていますから」と言う。そのまま手をつないで講堂を出て僕のアパートに行き、一緒に暮らし始めました。
当時僕は小説家を目指していましたが、恭子さんはこうも言いました。「売れない小説家の女房を一生やる」と。この人は僕のことを、生涯純粋な作家として生きることを認めてくれているんだ、と思いました。恋愛とも違う。生き残ったもの同士、可能性をこの人に賭けてみようという、「断念と覚悟」といった感覚です。