大人を信用したら自分はダメになる

僕が生まれたのは、日中戦争のさなかの1938年。父は僕が1歳の時、軍医として中国大陸に渡りました。僕は母の実家である尾道の病院で育ちましたが、親族だけでも男15人、女15人超の大所帯。さらに看護師さんが数十名と車夫さんもいる。

人が多くても孤独な少年だった僕は、よく一人で蔵の中で遊んでいました。そして3歳くらいの時、そこで活動写真機と出会った。写真機やフィルムをオモチャがわりに、僕は遊びとして映画を作ることを覚えたのです。

去年、友人が実家の片づけをしてくれたところ、当時僕が描いた絵が出てきました。パールハーバーでルーズベルトやチャーチルが「キャー、助けて」と叫んでいて、僕がゼロ戦に乗って空から爆弾を落として敵をやっつけている。つまり僕は、軍国少年だった。母はその絵を慰問袋に入れて父に送り、父は帰国するまでそれを大事に持っていたのです。

やがて敗戦。進駐軍が上陸したら、男は撲殺され、女は強姦されると、子ども心に思っていました。そんなことになるくらいならと自害した人も、病院に運び込まれてきました。

誰が僕を殺してくれるのか。父ちゃんは戦争から帰ってこないし──。そう思っていたある日、母が真面目な顔をして、「宣彦、今日は母ちゃんとお風呂に入ろう」と言う。当時は男尊女卑の時代。お風呂は男から先に入っていたので、普段、母と一緒に入ることはなかったのです。

お風呂から出ると、母は長かった髪をはさみで切り、僕にはよそ行きの服を着せてくれました。寝間には蒲団が敷かれておらず、2枚の座布団の間に短刀が置かれている。7歳だった僕は、母ちゃんが殺してくれるなら痛くはないだろうと、ほっとしました。そのうちうとうとしてしまい、気がついたら朝でした。

その頃からです。日本というのはヘンな国だなと思ったのは。学校に行くと、それまで斜めに置いても叱られていた神聖な教科書を、先生が墨で消していく。「富士は日本一の山」なんていう言葉まで、「こんなことを言っているから日本はおろかな戦争をしたんだ。富士山は世界で何番目の低い山にすぎない」とか言って墨で塗る。先生さえも信じられなくなります。

日本の大人への不信感が決定的になったのが、12歳の時に始まった朝鮮戦争でした。日本の基地から出かけていくアメリカ人も死んでいくし、差別して申し訳ないと思っていた朝鮮半島の人も死んでいく。

日本は戦争を止めることに力を尽くすだろうと思っていたら、戦争特需で景気がよくなり、我が家の食卓にステーキが上るようになった。戦争のおかげで日本は武器を売って豊かになったから、復興が始まったというのです。それ以来、大人を信用したら自分はダメになると思うようになりました。