一揆が起きた時の当主は金森頼錦
当時の郡上藩は3万8000石の小藩で、藩主は外様の金森氏。
その祖である金森長近は織田信長や豊臣秀吉に仕えて大名になった武将ですが、茶の湯や蹴鞠を嗜む文化人としても有名でした。
一揆が起きたときの当主は頼錦(よりかね)という人物で、彼も文化に造詣の深い人物でした。けっして凡庸な人ではなかったのです。
ですが、文化人であることは、政治活動とは関係がありません。
頼錦は藩財政の悪化に対処するために、年貢の徴収方式を定免法(毎年一定額)から検見法(その年の収穫高に応じて徴収)に変更しようとしたのですが、これがいけなかった。