光格天皇

安永8年(1779年)、後桃園天皇が22歳の若さで崩御しました。

本郷先生のロングセラー!『「失敗」の日本史』(中公新書ラクレ)

天皇には子どもも弟もいませんでした。そこで白羽の矢が立ったのが、聖護院門跡を継ぐ予定であった(まだ出家はしていなかった)、閑院宮典仁親王の第6王子、祐宮でした。

祐宮は当時9歳。父の典仁親王は東山天皇の孫ですので、祐宮は曾孫に当たるわけですね。

宮は師仁と名乗り(すぐに兼仁に改名)、即位しました。これが成長した後に、多くの朝廷の儀式を復興した光格天皇です。

光格天皇は子である自分が、父君よりも上位者(天皇は親王より上位だから)になったことを憂慮しました。さらに、徳川家康が制定した「禁中並公家諸法度」の第2条によって、皇族である親王の席次は三公の下、と決められていました。

三公とは太政大臣、左大臣、右大臣のこと。つまり摂関家の貴人とはいえ、臣籍の貴族より下位に置かれたのです。古典に詳しい天皇にしてみたら、そんなバカな、ということでしょう。