「おまえが必要なんだ」と言われたら、あらがえない

目の前にいる家族に向き合い、対応していくことは、学業や学校生活に使うエネルギーと時間を侵食していく。

ケアを要する家族のニーズに応え続ける中で、能力向上や将来への準備という未来志向や競争原理を含む学校の価値観は、その意味を揺らがせる。ケアは、「あなたが必要」「あなたでなくてはダメ」という指向性も持っており、必要とされることの依存性に子どもが抗うのも難しいとAさんは語る。

Aさん 簡潔に言ってしまうならば、「あなたでなくてはならないから」だと思います。愛情から生まれる関係性。親とかきょうだいとか孫とか。そういう関係性がないと成立しないことが多いから。

筆者 自分のことをするのか、自分を必要としている人のニーズを満たすのかという時に、自分のことやるのはわがまま、っていうところはあるかなって思って。

Aさん でも、誰かに必要とされるってことの依存性に抗うのは難しいと思います、子どもが。それは難しい。絶対に難しい。「あなたが必要なんです」っていうのを、社会人になってから言われるのと、子どもに、「あなたが必要なんです」っていうのを親とかきょうだいとか(が言うのでは)。

うちの祖母で言ったら、私の名前を読んで「おまえが必要なんだ」って感じで来るわけですね。それに抗うのはすさまじく難しいと、ずっと思ってました。叫びみたいな感じで「おまえが必要なんだ!」みたいな感じで来る人を振り切って自分の人生を歩むのは難しい。それは、わがままっていう感じよりも、心地よさとか、快楽まではいかないけれど、必要とされているっていうののアレには勝てないと思いますよ。

だって、仕事であなたじゃなきゃダメなんだ、あなたが必要なんだ、っていうのはそんなにないじゃないですか。他の人だってできること。でも、ケアラーの場合は、あなたじゃなきゃダメなんだ、なんていうのはいくらでもありますもん。

筆者 でも、そこに、快楽っておっしゃったけど、やりがいみたいなことを感じることは

Aさん うん……。

筆者 やりがいではない?

Aさん やりがいには近いけど……やっぱり、必要とされていることそのもの。やりがいともまた違うような。たとえば、やりがいがあまりないことを挙げるとしたら、下の世話とか。でも、やりがいは感じないけれども、祖母の思いとして「他の人にはさせたくないんだ!」というのがあって。そうなっちゃうと、「そうか、やるしかないよな」みたいな。やりがいは感じないけど、やるしかない。それに心地よさは感じないけど、依存性みたいなのはあるんです。難しい。

おそらく、これからの日本社会では、一生のうちに何らかの形でケアを経験する人は増えていくだろう。自身も病や障がいを持ちつつ誰かをケアをするように、万全ではない体制でケア役割を担うことも珍しくなくなると思われる。

誰かを支えながら自身を支える経験をする人が増える社会だからこそ、それをより若くして担う年少者への気遣いや理解、共感、支援も広がっていくのかもしれない。

サポートが必要な人を無償でケアすることと、自分や家族を経済的に支えること。このどちらかを取ればどちらかが成り立たない社会であっては、家族など誰も持てなくなってしまう。ケアを担った経験を持つ人の知見や理解が、多くの人が働きやすい環境作りに活かされ、社会もより強くなっていく、そんな仕組みを作っていけたらと願う。


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