「女人禁制」を厳守するために
宗教はしばしば強い性規範を持ち、キリスト教やイスラム教などは男色を強くタブー視してきました。ヨーロッパのキリスト教会では男色が許されざる罪とされ罰せられてきたのです。
一方、日本の仏教寺院には、そうした決まりはありません。むしろ頑なに守ったのは、「女人禁制」。僧侶は女性と接してはならないという決まりを厳守するため、男性が性愛の対象に選ばれたわけです。その相手になったのが、少年修行僧である。中世の有力寺院には「うちには何々丸くんという可愛い子がいるんだぞ」と自慢できるお稚児さんがいたとされます。
室町時代には、寺院における僧と稚児の間の愛執を描いた稚児文学(稚児物語)も盛んに書かれました。その最初期の作といわれる『秋夜長(あきのよのなが)物語』は複数の写本が伝わり、絵巻や絵物語が作られたことからも人気のほどがうかがえます。さらに男色は貴族社会にも広まり、たとえば後白河法皇はかなりの男色家だったことが、当時の貴族の日記にも記されているのです。
武家社会も、寺院や貴族とのつながりが生じるにつれて男色文化が浸透していきました。室町幕府の3代将軍・足利義満は能楽師の世阿弥を寵愛したことで知られますが、世阿弥は歌人としても名高い二条良基も夢中にさせる美少年だったとか。
戦国時代になると、戦場に妻や側室を連れて行けない武将は、男性を性的対象にします。有名なところでは、織田信長と森蘭丸。また武田信玄が、家臣の春日虎綱(かすがとらつな)に宛てた恋文というものも存在します。虎綱は、上杉謙信との戦いで最前線となる城を任されるほど信玄から強い信頼を寄せられました。
肉体だけでなく、精神的な男性同士の強い絆は「衆道(しゅどう)」という独特の文化につながることに。江戸時代末期に書かれた『賤(しず)のおだまき』という小説には、男性同士の恋愛は、男女の恋愛よりも上位にあるという価値観が語られています。こうして仏教をきっかけに広まった男色文化は、明治維新前後に来日した西欧人が驚くほど、日常のものとして日本の文化に根付いていったのです。
