「主人公との旅」 林真理子
表紙にこう書かれている。
「熟した柿の実が自然に落ちるのを待つように、気長に時機が来るのを待つこと」
これによって読者は、主人公がやがて希望と再会の日が来ると想像し、ページをめくるのであるが、結末がわかっているのに最後まで読ませる著者の力量はすごい。
まず書き出しの不穏さ。伯母の葬儀の精進落としの夜から物語は始まっているのであるが、低い不協和音のようなエピソードが続く。
酒に酔った人々は、乱痴気騒ぎをして、近所の老人から呪いの言葉を浴びせられるのだ。そして帰り道、さっそく呪いは果たされ、主人公は不運のどん底につき落とされる。そして長い月日がたつ。
社会の底辺で、たった一人淡々と生きていくこの描写が素晴らしい。みじめ極まりない生活であるが、どこか清澄な空気が漂っているのは、主人公の「息子に会いたい」という、強い意志によるものである。彼女の意志は読者の共感を得て、気づくと読み手は主人公を応援していく。それは彼女が決して堕ちることなく、ひたすら労働していることにもよるだろう。
彼女を応援してくれる唯一の人、息子の同級生の母娘によって、彼女は息子と再会を果たす。このラストシーンは感動的だ。
「表紙の予言」によって、この結末は予想された。それなのにやはり心をうたれる。共に月日を生きてきたように思う。『熟柿』を読むと、長篇小説とは主人公と旅をすることだとつくづくわかるのである。
「まさに熟柿」 村山由佳
一行目から引きずり込まれ、それきり最後まで息を詰めて読み切ってしまった。佐藤正午さんの文体が持つ唯一無二の魅力と、常に〈そうなる以外にない〉展開の妙が合わさればもはや無敵なのだ。
主人公のかおりが轢き逃げの罪に問われてからの17年間を、読者の紅涙を絞る感動物語に仕立てようと思えばできたはずなのに、作者はあえて抑えた筆で淡々と描写してゆく。犯した罪を悔いつつ、会えない息子のために自分にできることを、と祈る気持ちが強いほど、かおりは周囲に過去を打ち明けられない。それをまた故意に隠していたと受け取られ、あるいは人の露骨な悪意に曝されて、彼女はさらなる社会の底辺へと追いやられてしまう。
驚くべきは、そうして堕ちてゆく過程にも、やがてひと筋の救いを得る道のりにも、作者のご都合主義やごまかしが見当たらないことだ。筆の誠実さと語り手としての巧妙さとは両立しにくいものだが、ここにはそのどちらもがあり、安心して物語に酔わせてくれる。選考会の席上、元夫の隠し事を知る場面は必要かとの議論もあったけれど、私個人としてはこの部分があったからこそ、やりきれなかった気持ちの落とし所を得ることができた。怒りの発散は特大のカタルシスなのである。
物語全体における一服の清涼剤のような久住呂咲(くじゅうろさき)ちゃん(このネーミングセンス!)が導いてくれる先のラストでは、読み手までもが主人公とともに息子の隣を歩いている気持ちにさせられた。
まさに、熟柿が落ちるようなご受賞である。




