姉清子の手記によると、金子が「竹取物語」の新聞記事に注目したのは、彼女が小学五年生の学芸会で「かぐや姫」の役を演じ、それ以来友達から「かぐや姫、かぐや姫」と呼ばれ、親しみを感じていたからだという。金子が古関に「竹取物語」の楽譜を欲しいと手紙を送ったことから、文通が始まった。
昭和5年2月か3月頃に金子から古関に宛てた手紙では、
「広いこの世界にこうして結ばれた魂と魂(結ばれたといつてよいと思ひます)お互が真剣に生一本な心の持主だつたら一致した時、必らず偉大な芸術を産み出すことが出来ると信じます」
と書いている。プロの作曲家を志す古関と、声楽家を目指す金子とで、最高の芸術を作れると確信したのだろう。
それには二人で渡英し、現地で勉強することが望ましかった。古関が金子に送った昭和5年3月頃の手紙では、9月8日に日本郵船の鹿島丸に乗って横浜を出発し、10月27日にロンドンへ到着する予定だと伝えている。
古関は金子を連れて渡英することも考えたが、その資金は工面できなかった。だが、古関は金子を必ず現地に呼び寄せるからと約束している。
貴女を友以上の人と考へる様になりました
古関は声楽家を志す金子を常に励ましていたが、それはプロの芸術家を目指す同志としての友情からであった。
しかし、昭和5年3月30日付の手紙からは古関の恋愛感情が芽生えた様子が読み取れる。古関は
「貴女が不美人だらうが、何んだらうが、そんな事は第二です。ただ貴女の、金子さんの気持ちに、その熱に、私は感じて居ります」
「何んだか金子さんを残しては外国へ行きたくない様な気持がします。『文は人なり』貴女の手紙に依(よ)つて私は貴女のすべてを知り得たと信じます」
と書いている。
さらに5日後の4月4日付の手紙では、愛の告白ともいえる部分がある。