写真を拡大 「洋行、貴女に別れるかと思ふと、何んだか、行きたく、なくなります。貴女の傍にいつまでも居たい」という古関の心情溢れる手紙。昭和5年4月29日付3枚目(写真提供:古関正裕さん)

私の貴女へ対する愛の結晶

昭和5年4月29日付で古関が金子に宛てた手紙では、

「貴女を愛し、貴女から愛される様になつた自分故に、今、創り出しつゝある私の芸術は、最大価値のものです」

「洋行、貴女に別れるかと思ふと、何んだか、行きたく、なくなります。貴女の傍(そば)にいつまでも居たい。いつまでも、いつまでも、離れずに居たい。英国の作曲家協会との契約は、五年以上です。五年間。あまりに長いです。五年間の間に、二人は、どうなるでせう」

という。

古関は金子を愛し、彼女と別れてイギリスに留学するか、それを断念するか、苦渋の選択を迫られた。その苦しい胸中も

「自分が生れて以来、経験した事のない精神上の苦しみ、恋のもだへ、自分一人で苦しみ、自分一人でなぐさめました」

と吐露している。

そして、2月中旬から4月下旬までに、オーケストラ13曲、室内楽3曲など合計26曲を作曲し、これらは「私の貴女へ対する愛の結晶」であり、名古屋に行くときにすべて持参して見せるという。こうした作曲意欲も、金子がいたから、湧き出てきたのである。

金子の詩に古関が曲をつけた「君はるか」

昭和5年4月29日付で古関が金子に宛てた手紙の最後には、「『君はるか』あまりに永くなつてしまひました。もうお送りします」とある。「君はるか」は、俳人浅原六朗(鏡村)に倣って金子が作った詩であり、それを手紙で知った古関が詩に曲をつけたものである。

この「君はるか」には、両者にとって特別な意味があった。古関は「『君はるか』の譜、是非歌つて下さい」、「『君はるか』本当に貴女ははるかですね、もつともつと近い処(ところ)にお出(いで)になられたら、お合ひも出来様ものを」と書いている。福島と名古屋という距離は「君はるか」というほど遠かった。