家康を郡山城に迎える

そして同年8月29日には、秀長は家康を本拠郡山城(大和郡山市)に招いている。この時には、家康と同じく秀長の「指南」をうけていた豊後大友吉統も同行していた。

(写真はイメージ。写真提供:Photo AC)

秀長はその日、両者を迎えるため、山城木津(木津川市)に赴いている。秀長はみずから、領国境まで出迎えたのである。翌日に両者を郡山城に招いたと推測されるが、史料では確認できない。その後、家康と吉統は奈良に赴いて、興福寺を宿所にした。

秀長は9月1日にそこを訪問し、家康から進物を贈られ、秀長に続いて正妻の慈雲院殿(「同女中」)、それに「女房衆」と有力な家臣たち(「惣の内衆」)にも贈られている。秀長に慈雲院殿と「女房衆」が同行し、家康に対面したことがわかる。

「女房衆」は特定できないが、秀長・慈雲院殿に同行し、進物を贈られていて、さらに秀長の家臣よりも上位に位置していることからすると、女房衆(女性家臣)の筆頭にあった人物と推定される。もしかしたら秀長長女の母摂取院にあたるかもしれない。

続いて吉統からも進物を贈られたとみられるが、秀長に対するもの以外は、残念ながら記録されていない。そして翌2日、家康と吉統は京都に向けて帰還し、秀長はやはり領国境目の山城笠置(笠置町)まで見送っている(『多聞院日記』)。