8月で、太陽がギラギラと暑い。気がつくと、私は小舟のなかに寝かされていた。3つぐらいの男の子が、お腹が太鼓のように膨らんで裸のまま死んでいる。小舟はその子と私を乗せているらしい。やっと砂浜に着くと、兵隊さんと白衣の看護の方が大勢駆け寄って、担架に乗せてくださった。小学校の講堂に収容されたが、お医者様も戦地に行かれていて、お歳を召した老医の方ではろくに手当てもできず、みな苦しんでいた。

私の息子もきっと死んだのね、お父さんが帰ってきたらなんと言い訳しよう、と一人泣いた。子どもの泣き声が聞こえたので、ごろごろ転がったり這ったりして近づくと、兵隊さんが幼子を抱いて揺すっている。もしやと見ると、私の子ではないか。あまりの幸運に、観音様ありがとうございます、姑のたのみで一心に覚えた観音経のおかげで私たちを助けてくださるのですか、と感謝した。兵隊さんには何度も何度も御礼を申し上げた。

栄江丸は、山口県小串沖で、ソ連の機雷2つにあたって沈没した。父、母、兄嫁、兄の子どもたち、私、息子。7人とも骨折したり怪我したりしながらも、命だけは助かったのは奇跡としか言いようがない。近くのお部屋を借りて1ヵ月ほどするとどうにか歩けるようになり、父の実家である島原にやっとたどり着いたのは、もうさわやかな秋風が吹くころだった。

 

見知らぬ村でも、どこでも私は生きていく

父の長兄にあたる伯父の家は広い百姓家で、7人が泊まってもまだ部屋が空いている。ただ、この家の従姉の夫も出征し、いまだ不在なのだ。いつまでも世話になるのは気の毒で、家を探すことにした。しかしこの田舎ではみな先祖代々の家に住んでいるので、借家などあるはずもない。牛小屋の物置ならどうかと言われたけれど、わら束が積んであったり、名も知れない大きな虫が這っていたりで、ぞっとした。

それなら水車小屋はどうかと言うので行ってみた。中は3つにわけられていて、左端は東京で空襲に遭い焼け出された洋服屋さんが、右端はやはり東京で焼け出されたというやくざの大親分がおばあさんと二人で住んでいた。その真ん中を、15円で借りることにした。

やくざの大親分は父の幼友達だったそうで、私が父の娘と知ると、急にやさしい顔になった。人の運命はわからんもんですな、と語り、子分が60人もいたという全盛時代の写真も見せてくださる。