この人も、父と同じく一旗あげようと東京に出たのかしら。もともとこんな暮らしになったのも、父が外国に出たのが原因よね、と愚痴をこぼしていたら、どさっと何かが天井から落ちてきた。胴回り7センチほどの蛇だった。ヒエーッと飛び上がって戸と窓を開け、「早く出て行って」と叫んだ。蛇が人の言葉などわかるはずもないのだが、その蛇はくねりながら、私を見てペロッと笑ったのだ。そうしてゆうゆうと玄関口から出て行った。

こわいからここは出る、と父に言うと、「蛇が笑ったって」と大笑い。引き揚げて以来、父がこんなに笑ったのを見たことがなかった。父と親友だったという村長さんがバラックを建ててくださった。人間は一人で生きているわけではないのだな、とつくづく悟った。お礼に村長さんの奥様に浴衣を縫って差し上げた。

小さかったわが子もちょっと大きくなった。ちょうどそのころ、川上哲治という野球選手がもてはやされていたので、晒(さらし)で野球のユニホームをつくり、黒い布から背番号の16をくり抜いて貼りつけたら、かわいい野球選手ができあがった。近くのお母さんたちが自分の子にもつくってください、というので夜なべして4、5人のかわいい選手をつくりあげると、村の人たちまで喜んでくださった。

昭和22年、春霞がたなびき、杉林のなかに点々と桃の花がほころびてすがすがしい朝。こっぱを干そうと外に出たら、桃の木陰から「オーイ、オーイ」と叫びながら走ってくる人影がある。男の人のようね、と思っていると、なんと一日たりとも忘れることのなかった夫と、兄と弟の3人だった。無事に帰還してきたのだ。懐かしさ嬉しさに飛びついて抱き合うと、涙、涙。これまでの苦労がいっぺんに吹き飛んだ。

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98歳で夫がこの世を去り、一人暮らしになった私は、お風呂の掃除で腰が痛いのよ、野菜を買っても重たいわ、などと娘に愚痴をこぼしたところ、子どもたちが家族会議を開いて、私を山の上のこの老人ホームに入所させる手続きをした。

家を出るとなると、さまざまな出来事が懐かしく思い出され、泣けてきた。しかし子どもたちは寄ってたかって、老婆の一人暮らしは火事を出すそうよ、とか、強盗も狙うのは老婆一人の家よ、殺されでもしたら大ごとよ、と脅かす。

暑い日だったが、思い切って入所した。もう3年になる。とても便利で、いつも温かい食事があり、きれいなお風呂も広々としている。そのうえ個室で、24時間は全部私のもの。親友も3人できて、とても楽しい終の住処となった。

勇ましかったあの大佐殿は、いつの間にかいなくなった。

  散る桜 残る桜も 散る桜  (良寛の辞世)

  仮の世に百年も生き次はどこ (明美辞世)

≪電話口の筆者≫

「原稿を送ったあと、急に恥ずかしくなったのよ」と笑いながら話す柿本さん。ご一家は、民間人向けの引き揚げ船と間違えて栄江丸に乗ってしまったのです。すでに反日暴動も起きており、埠頭は帰国を急ぐ日本人で溢れていました。ごった返す人のなか、なにがなんだかわからず列に並び、そのまま乗り込んだ船が栄江丸だったのだとか。

顔にはいくつもの傷ができました。それでも家族がみな無事であったこと、夫や兄弟と再会できたことは、なによりの喜びだったでしょう。戦時中、和裁の内職で家族を支えた柿本さんはこう振り返ります。「母は躾が厳しくて、私に布団も縫わせたの。でもそれが身のためになって生きてゆかれました」。

「姉の愛読誌だった」という本誌を、小学4年生から読んでくださっていた柿本さんは、「あなたが怖い病気に罹らないよう、観音経を唱えますね」と力づけてくださいました。