
戦後、海上保安庁で日本周辺の掃海任務にあたっていた浦賀だが、ある日、緊急電により下関へ向かう。そこには多数の掃海艇が集結していた……。当時の日本の難しい立場を背景に約三十年も秘された事実をもとに、日本人にもっと知ってもらいたいと願う直木賞作家の著者が、全力で挑む歴史大作、ここに開幕!
第一章 触雷
一
昭和二〇年三月二九日の夕刻。
瀬戸内海を西進していた第一遊撃部隊は、山口県三田尻沖で停止しようとしていた。
早朝に敵航空編隊接近の報があった。このときは機影を見ることはなかったが、油断はできない。部隊を統率する第二艦隊司令部は、不意の空襲に備えてすぐ動けるよう、錨(いかり)を降ろさない漂泊を各艦に通達していた。
駆逐艦「響(ひびき)」は速力を六ノットに落としたが、まだ停止していない。波に艦を任せる漂泊では、衝突を避けるため僚艦と距離を取る必要があった。
響の艦橋は狭い。艦長、先任将校として艦長の補佐も担う水雷長、砲と機銃の一切を指揮する砲術長、主計長、航海長と航海士、艦長伝令や据えられた六つの双眼鏡、各種機械に張り付く下士官兵が入れば、もう息苦しいほどになる。艦長だけが紺詰襟(こんつめえり)の第一種軍装で、ほかの士官はくすんだ若草色をした背広型の第三種軍装、水兵はいずれも白い事業服という出(い)で立(た)ちだった。
「このへんでよかろう」
艦長が静かに言い、航海長がすかさず「両舷停止、漂泊用意」と命じる。速力通信機の前に立っていた水兵が「両舷停止」と復唱しながらレバーを引き、艦長伝令は艦内スピーカーのマイクを握って「漂泊用意」と伝える。
通信士兼航海士の浦賀新吉(うらがしんきち)少尉は、素早く時計を一瞥(いちべつ)する。ひしめく人々を機敏にすり抜けて艦橋の隅へ行って右手で鉛筆を拾い、航海日誌綴りに「1720 両舷停止 漂泊用意」と手早く記した。その間にも左手は無意識のまま、傍らの携帯型コンパスに延びている。
「艦位を測定します」
浦賀はそう言い残し、コンパスを携えて後方へ走る。
戦闘艦といえど、常時戦闘をしているわけではない。ただし常時、フネである。戦闘艦をフネたらしめる航海科は、とにかく忙しい。海図の上で定規やデバイダーを使いながら航路を定め、艦が動けば見張りや操艦にあたり、信号旗を掲げ、手旗を振る。どんな艦でも航海長は「休みなし」とまで評される激務だ。航海長を補佐する浦賀のような航海士も、定め通りの当直四時間ではとても仕事を終えられないし、下士官兵のように八時間ぶっ通しで寝られる日はない。
かててくわえて駆逐艦は小所帯だから、浦賀は通信士も兼ねている。実務こそ通信科の下士官兵がやってくれるが、時には自らトントンツーと電信を打ち、暗号文を訳し、青緑色の波がさんざめく電探(レーダー)のブラウン管とにらめっこせねばならない。
自然、浦賀の身ごなしは素早くなった。海軍兵学校を卒業してまだ一年と数日、響に乗り組んでからは三か月余りしか経っていないが、連日の疲労に相応して船乗りとしての自負も芽生えつつあった。
旗甲板へ出ると、艦橋よりずっと濃密な潮の香りが浦賀の鼻腔(びこう)を満たした。
色とりどりの旗が並ぶ信号旗掛の脇に立つ信号兵に「ご苦労」と告げ、浦賀は左舷を見る。確か佐波島(さばしま)といったか、ごく小さな島がある。
それから右舷のほうに、今度は身体ごと移動する。巨大な本州島が、雄大な姿で視界の隅から隅まで横たわっていた。二つか三つの目標を定め、その方位をコンパスで測定すれば、艦位は特定できる。
目標のひとつは佐波島でよい。ほかに目標にできそうな灯台か小高い山を本州側に求めて、浦賀は首を巡らせる。
雲量ゼロの晴れやかな空は赤く染まりつつあった。風はゆるい。瀬戸内海は内海らしい穏やかな波が行き交い、遠くではいくつもの僚艦の航跡が、白く延びている。
清涼な水で全身を洗っているような気分で世界を見渡していた浦賀は、ふいに悲しくなった。
響のずっと後方に、旗艦「大和(やまと)」が威容を海に浮かべている。その排水量は六万四〇〇〇トン、全長は二六〇メートルを超える。世界最強の武装と装甲を持つ巨艦で、軍艦マーチでうたわれる通りの「鋼鉄(くろがね)の浮かべる城」だ。比べれば、二〇〇〇トンと一二〇メートルに満たない響など木の葉に等しい。
大和が竣工(しゅんこう)したのは三年と三か月ほど前。日本が真珠湾とマレー半島を奇襲して大戦争を始めた直後で、唯一の姉妹となる同型二番艦の「武蔵(むさし)」も竣工間近だった。このとき帝国海軍は他に一〇隻の戦艦と三八隻の巡洋艦、一〇〇隻を超える駆逐艦、六隻の正規空母と海陸の精強な航空隊を擁し、最盛期を迎えようとしていた。
その帝国海軍は、激闘の末にすっかり擦り減ってしまった。残っているのは第一遊撃部隊をようやっと動かせるだけの重油、誇るべき大和の出撃に巡洋艦一、響など駆逐艦一二しか付けられないほど少なくなった艦艇、大和の護衛に一機も割り当てられない微弱な航空戦力、巨大戦艦といえども航空攻撃にはもろいという戦訓だけだった。
響とて、開戦からずっと広大な戦域を駆け回っている。暑熱に焼かれながら南方作戦に従事し、風すら凍るアラスカ方面にも出撃した。今回の出撃は二度目の大破からの復帰初戦であり、新米少尉の浦賀新吉にとっては初陣だった。
初陣。
そう思うと、浦賀は不思議な気分にとらわれる。
目下、アメリカの大軍が沖縄に迫っている。その迎撃のため、日本の陸海軍は膨大な数の特攻機を用意し、各地の飛行場に待機させている。
大和以下の第一遊撃部隊が向かう先は、やはり沖縄である。
出撃は、艦隊特攻と呼ばれている。第一遊撃部隊は生還を期さず、アメリカの艦艇で満ち満ちている海域にわずかな兵力で殴り込みをかけ、一隻でも多く刺し違えて沈む。もしくは水上を縦横に駆けられるはずの艦体ごと陸に乗り上げ、二度と海に戻れぬ砲台に変じ、上陸する米軍と戦う。そのとき、砲術科以外の乗員は慣れぬ銃を手にした陸戦隊に変わり、玉砕するのだろう。航海士兼通信士の浦賀もだ。
死ぬのが怖い、とは浦賀は思わない。怖ければ兵学校になど入っていない。
初陣は待ち焦がれていた。軍人になると決めた以上、戦さに心が躍(おど)らない者はいない。
死が決まった初陣。矛盾めいた自分の運命を、浦賀は悲観していなかった。戦って戦って、戦い抜いてから華々しく死んでやろうと思っていた。帝国海軍の将校として、海軍の誇りから非力な存在に転落した憐れな大和と運命を共にできるのなら、これ以上の死に場所はない。
ただし、慣れぬ陸戦で死ぬのは勘弁願いたい。せっかく航海士になったのだ。できれば海図を運んでいたい。もし途上で不幸にも航海長が戦死したならば、変わって自分が沖縄までの航路を策定してみたい。
何にせよ、海の上で死にたい。畳の上では死ねない道を志願したのだから。
「どうかしましたか、少尉」
浦賀より若い信号兵の心配げな声で、我に返る。
「なんでもない。大丈夫だ」
そう答えたとき、きちんと直立していたはずの信号兵が思い切りすっ転んだ。
なんだ、といぶかる間もなく、浦賀の両手は舷墻(げんしょう)を掴んでいた。響の艦体が大きく持ち上がる。思わず取り落としたコンパスを追いかける視線の先で、海面は白く染まりながら急激に膨らんでいた。白い海水はすぐに上甲板を、次いでコンパスを呑み込み、上甲板より三層高い旗甲板にいる浦賀すら超えて高々と昇っていった。
やがて艦は上昇を停止し、吹き上がった海水ごと落下する。足元が揺れる浦賀は、降り注ぐ海水に耐えきれず押し倒される。
急いで立ち上がる。戦闘帽がどこかへ飛んでいたが、構う暇はない。丸刈りに散髪し直した頭を両手で、それから右手だけで顔を拭う。急いで駆け戻った艦橋では何人かが尻餅をついていた。
「防水」
鋭く命じる艦長は、さすがというべきか立っていた。艦長伝令が艦内スピーカーのマイクを握り、それからずらりと並んだ艦内電話の送受話器をいくつか耳に押し当て、青い顔で振り返ってきた。
「スピーカー及び電話、不通」
「走り回ってこい。防水だ」
艦長が怒鳴り、伝令はあわてて階段を駆け下りてゆく。
「電探破損」
「機関停止」
「電源、落ちています」
各所へ通じる伝声管から、くぐもった叫び声が飛んでくる。
「水雷長は魚雷発射管と艦体、砲術長は各砲の状況を確認せよ。もし浸水があればそのまま処置の指揮を取れ。あと――浦賀」
矢継ぎ早に命じた艦長は、戻ってきたまま突っ立っていた新米少尉を呼んだ。
「機関の様子を見に行け。艦が走れぬとあらば、特攻も何もない」
「浦賀少尉、機関の様子を見てまいります」
絶叫で復唱し、浦賀は艦橋のすぐ後ろにある階段を駆け下りた。
駆逐艦は、高速で戦闘海域を突っ切り、敵艦隊の至近で一撃必殺の魚雷をありったけ撃ち放すために設計されている。響の場合は艦体のほぼ半分を巨大なタービン四つと機械室で占める。そういえば兵学校時代の教官は、駆逐艦を胴体まるまるが心臓になった水泳選手にたとえていた、などと思い出しながら、浦賀は上甲板へ出る。
夕暮れの中、第一遊撃部隊の各艦は増速していた。真っ先に想定される潜水艦の脅威から逃れるため、この海域を離脱するつもりだろう。置いてきぼりか、などと恨む暇はない。飛行機と並んで潜水艦も戦艦の天敵だ。ふと見上げると、煙突は黒い煙でなく白い蒸気を吐いていた。不安を覚えながら浦賀は機関指令室に飛び込む。
「元弁を閉めろ。早く」
油じみた事業服に少佐の階級章をつけた髭面の機関長が、伝声管に向けて怒鳴っていた。
「航海科の浦賀少尉です。艦長に命じられ、様子を見に参りました」
「俺も今から行くところだ。貴様もついてこい」
早足で行く機関長を浦賀も追う。
缶室に収まるタービンは、各辺を外側に膨らませた三角の形をした巨大な機械で、二層しかない艦体をぶち抜いて据えられている。タービンが生む動力でスクリューを回す機械室も、あれこれの大きな装置がやはり二層ぶち抜きで据えられている。どこも狭く、騒々しく、鼻が曲がるほど重油臭く、暑い。機関科の面々が汗みずくで駆け回り、あちこちを調べている。
数分のうちに機関の損害状況は判明した。タービンもほか機械も無事だったが、蒸気や潤滑油を送る数百本にも及ぶ管が各所で破損し、管とタービンを囲む耐火レンガも崩れていた。
「駆逐艦の中でレンガを焼けるか。とりあえず管を直せ。急げ。ただし慌てるな。そこは素手で触るな、ヤケドする。だから元弁は閉めろと言ったろうが」
機関長はあちこちで命令や叱咤(しった)を飛ばし、それから浦賀を振り返った。
「機関科は俺が鍛えぬいている。響は動かせる。ただしレンガが割れちまったから全力では走れん。艦長へ伝えてこい」
「特攻は。どうなりますか」
浦賀は思わず訊き返した。すがるような気分になった。
があん、と大きな音が立った。手の骨が折れるのではないかと思うほどの強さで、機関長が壁を殴っていた。
「走れねえフネに特攻なんてできるかって言うやつがいたら、俺んところに連れてこい。そいつを割れたレンガの代わりにしてやる。それとも貴様がレンガになるか」
「私は、特攻に行きたいのです」
浦賀は叫び返した。機関長は同時に上がった異音のほうへ振り返り、「そっちの管も壊れてるぞ」と怒鳴ってから浦賀へ向き直った。
「艦橋へ戻って俺が言ったことを伝えろ。それがいまの貴様の任務だ」
「人間をレンガにする話を、ですか」
「響の足は、俺たち機関科が必ず直すってほうだ。行け、浦賀少尉。貴様はまだ走れる」
「浦賀少尉、艦橋へ戻ります」
無帽であること忘れ、浦賀は挙手で敬礼した。急な階段を駆け上がり、上甲板を走り、さらに階段を昇る。舞い戻った艦橋は雰囲気こそ張り詰めたままだったが、さっきより落ち着きを取り戻していた。
「機関長によれば、まもなく航行可能とのことです」
浦賀は叫び、じかに見た管と煉瓦の破損を詳しく報告する。艦長は「ご苦労」と重々しく応じた、べらべら話すよりよっぽど威厳があるように浦賀には思えた。
近くの海では、駆逐艦朝霜(あさしも)が大回りに回頭している。艦隊司令部から指示で、響の護衛と対潜警戒に当たっているのだという。もし響の機関が復旧しなければ、どこかの港まで曳航(えいこう)してくれるのだろう。
やがて水雷長が艦橋に上がってきた。魚雷発射管は固定装置に不具合が生じつつも旋回や発射には支障なし、艦内に目視できる浸水箇所はないが重油タンクより流出あり、とのことだった。
大丈夫だ、と浦賀は念じた。この程度の損害なら、最後の出撃くらいはやってのけられる。タンクは応急処置くらいでよかろう。響の機関長があの人でよかった、とも思った。
いつのまにかいなくなっていた航海長も艦橋に駆け戻ってきた。
「見張りの各員に再度ただしましたが、魚雷の航跡や潜水艦らしきものは視認していません」
「やはり、そうだろうな」
さっき報告を終えたばかりの水雷長が、深々とうなずいた。
「魚雷なら一発では終わらん。停泊直前の、しかも戦艦という高価値目標を含む艦隊。これほど格好の餌を前にすれば、どんなケチくさい潜水艦でも、あるだけの魚雷をつるべ撃ちしてくる。おそらくは触雷だ」
機雷は、いわば海面下に仕掛けられた爆弾だ。自ら動いて目標を追いかけたりはしないが、船が衝突するかその接近を感知すると爆発する。水線下に大穴を開けられたら、どんな船もあっけなく沈んでしまう。重厚な装甲を持つ軍艦とて船底はもろく、帝国海軍も日露戦争のおり、当時の新鋭戦艦二隻を機雷で失っている。
「触雷って」
主計長が青ざめた声を上げた。もとは召集された大学生で、主計長を務めるいまも、どこか軍人らしくない。
「ここは瀬戸内海ですよ。日本の懐とか中庭みたいなもんです。どうやって米軍が機雷を敷設するのですか。――いや、申し訳ありません」
主計長は口をつぐむ。続くかもしれなかった言葉を、浦賀は想像する。
日本はすでに敗北している。瀬戸内海に機雷をばらまかれるほど追い詰められているのだから。明日以降も各地で続く戦闘はとどのつまり、大本営が敗北を認めるまでの逡巡(しゅんじゅん)の時間に過ぎない。
誰かが逡巡するせいで行われる特攻に、意味はあるのだろうか。ふと浮かんだ自問に、浦賀は「くだらない」と内心で自答した。自らの死に納得している以上、意味など求めても仕方がない。短い余生の間にもし余裕ができれば、未来の人類が平和を愛することを祈ろう、などと思う。
「対潜、対空見張りを厳となせ」
艦長は命令の形で無駄話の中断を命じた。
浦賀は士官室に走り、触雷のときから濡れっぱなしだった軍服を急いで替えた。やはり走って海図室へ行く。先回りで準備する癖が、いつのまにかすっかり身についていた。もし艦隊司令部から帰投を指示されたら必要になるはずの、近辺海域の真新しい海図を数枚取り出し、艦橋の海図台に運ぶ。帰投となれば特攻には行けない。先回りのおかげで不穏な予感に至ってしまった浦賀は、首を左右に振った。
「機関復旧。五ノットは可の見込み。それ以上は試運転しだい」
機関指令室から報告があったのは、触雷から一時間も経たぬころだった。
「本隊に追従する。司令部に状況を報告せよ。機関始動。出力は別命あるまで機関長の任意で上げよ」
艦長は淡々と命令を下す。
黙って海図台を整理していた浦賀は、何も考えるなと念じながら、こんどは通信士の役目をこなす。通信室へ降り、「機関復旧、速力五ノット発揮可」と用紙に走り書きし、通信兵に渡す。旗艦大和にある艦隊司令部からはすぐに折り返しがあり、通信兵が鉛筆で書き写す。その間にも機関の音は大きくなる。浦賀は受信の用紙を受け取って素早く読み、何も考えるなとまた念じた。
小走りで戻った艦橋では、「現在、速力九ノット」と誰かが報告していた。機関科の努力と手にした通信文の内容との落差に、浦賀は泣きそうになる。
「通信です。発、第二艦隊司令部。宛、駆逐艦響。朝霜の護衛で呉(くれ)へ帰投せよ。以上です」
浦賀が読み上げると、艦橋は重苦しい沈黙に満ちた。艦長はうつむき、低く長い溜息を吐き、それから顔を上げた。
「呉へ戻る。操艦は航海長に任せる。私は艦内を巡検する」
艦長は静かに告げ、伝令ひとりを連れて艦橋を離れた。
「浦賀。航路は貴様が決めよ」
航海長は海図台を二度、人差し指で叩いた。それから一歩前に出て、「もう機関に無理はさせられん。両舷前進微速。面ォ舵ァじ」と言った。「両舷前進微速」「面ォ舵ァじ」とそれぞれの場所から復唱がある。機関の唸りは低くなり、艦首はゆっくり右へ巡ってゆく。
浦賀は海図台に取りついた。自分で持ってきた真新しい海図に、定規と鉛筆で線を引く。
――死ねなかった。
浦賀の胸を絶望が満たした。 〈つつく〉
