
戦後、海上保安庁で日本周辺の掃海任務にあたっていた浦賀だが、ある日、緊急電により下関へ向かう。そこには多数の掃海艇が集結していた……。当時の日本の難しい立場を背景に約三十年も秘された事実をもとに、日本人にもっと知ってもらいたいと願う直木賞作家の著者が、全力で挑む歴史大作、ここに開幕!
その日の朝、浜辺に建つ宿舎から見渡せる海は、薄もやにかすんでいた。
せっかくの修学旅行なのに、とまだ十一歳だった浦賀は、恨めしく思った。もぞもぞと周りで起き出す級友とくだらない話をしているうちに気分が変わり、食堂に入ったころにはすっかり楽しくなっていた。薄い味噌汁はかえって飲みやすく、鮭の切り身は思ったよりしょっぱく、ご飯は二度、お代わりした。
着替え、宿舎の前でクラスごとに整列したとき、もやはすっかり晴れていた。
「さ、行きますよ。列を乱さないように」
浦賀たちを担任する先生は長いスカートをはき、白い半袖のブラウスを夏の陽に光らせていた。行き先は佐世保(させぼ)鎮守府で、施設や停泊中の軍艦を見学する予定だった。生徒たちはぞろぞろと歩きながら、佐賀県の小学校から来たのに流行歌の「東京音頭」をうたった。続いて、誰かが色っぽい声を使って「キューバの豆売り」をうたいだした。それまで、生徒が列から飛び出しさえしなければ終始にこにことしていた先生が急に目をいからせ、「ジャズソングは大人になってから楽しみなさい」とたしなめた。
佐世保鎮守府の太い門柱はいかめしく、さすがに生徒たちは粛々(しゅくしゅく)として門を抜けた。金ボタンを五つ連ねた紺地の詰襟服を着た下士官に先導され、佐世保鎮守府の内を歩く。
鎮守府には工廠(こうしょう)もあり、遠くには見上げるほど巨大なクレーンが何基もあった。走り回るトラックや自転車の数は、田舎育ちの浦賀が短い人生で目撃した合計をたぶん超えていた。セーラー服姿の水兵が銃を肩に掛けて行進し、革鞄を持って歩く将校の腰には短剣の鞘がスマートに光っていた。
海に出ると、生徒たちは「うわあ」と歓声を上げた。浦賀は声も出ないほど感動し、ただ目を見張った。
城のごとく大きな艦、凛々(りり)しく鋭い形をした小さな艦。いずれも重厚な濃灰色に塗られ、岸壁や沖合で静かに停泊し、あるいは青い海を割ってゆっくり進んでいる。
それぞれの艦上では米粒ほどに小さく見える水兵が、駆け足で甲板を行き、急なラッタルを駆け上がり、目が眩(くら)むほどの高所に立って手旗を使い、きびきびした動作でなにがしかの作業をしている。
佐世保の海は青く澄んでいて、穏やかな波間のあちこちが陽光をちりばめたように光っていた。三方を囲む陸地が外海の荒波から船を守る天然の良港である、と案内の下士官は説明してくれたが、狭いといえば狭い。その狭さはかえって、外海の広さを想像させてくれた。
米粒ほどちっぽけな人間が、あきれるほど巨大な軍艦を造り、操り、広い海を渡る。自分はどんな大人になるのだろう、とふと思うくらいの齢にはなっていた浦賀に、佐世保の光景は強烈な印象を与えた。
――かっこいい。
そう思った。成長してから当時の感情を振り返っても「格好が良かったんだ」としか説明できないほど、簡素かつ確かな憧れをいだいた。
修学旅行から帰った浦賀は、猛烈に勉強した。頭が参ってくれば、そこらを走り回ったり乾布摩擦(かんぷまさつ)に精を出して体を鍛えた。県内屈指の中学校に進学すると、さらに励んだ。
かくて昭和十六年の十二月一日、浦賀は十八歳で海軍兵学校に入学する。第一高等学校、第三高等学校、陸軍士官学校と並び称される日本の最難関校であり、卒業すれば海軍少尉に任官する。能力や手柄次第では巨大戦艦の艦長職を拝命し、連合艦隊の司令長官にだってなれる。そうでなくとも、ときどきの人事担当者が浦賀の念願を取り違えたり切り捨てたりしなければ、ずっと海にいられる。海に得た志を、海で果たせる。浦賀は歓喜した。
入学から七日後、午後五時に集合があり、三学年あわせて二千名を超える生徒は講堂に鮨詰めとなった。
――朕、茲(ここ)に米国および英国に対して戦(いくさ)を宣す。
校長は対英米開戦の詔勅をうやうやしく朗読し、また「矢は弦を離れた」と訓示した。
二年四か月後、浦賀は短縮された年限を終了し、卒業した。半年の候補生期間を経て少尉に任官、さらに四か月弱を経て駆逐艦響に配属となる。
といっても、このときの響は完了間近ながら修理中だった。輸送船団を護衛中にフィリピン沖で潜水艦に襲われ、先に撃沈された輸送船の傍らで溺れる陸軍兵士を救助しているさなか、響にも魚雷が命中した。艦体は前部一番砲塔のあたりから首が折れたように垂れ下がり、水を掻きだしながら後進して台湾(たいわん)の高雄(たかお)にたどり着き、応急措置をして内地へ至ったころには、乗員に赤痢(せきり)が蔓延していた。
――俺たちは死ぬために生まれたのだ。
水を抜かれた横須賀のドッグに佇む響を眺め、世代を代表するようなつもりで、浦賀は思った。
思い返せば小学校二年生のとき、満州事変があった。中学校で二年生をやっていたころに北京郊外で起こった偶発的な軍事衝突は、戦争未満の事変という扱いのまま全面戦争に拡大した。兵学校に入る年、日本はまだ中華民国との戦争を続けていて、世界で二か国しかいない味方のドイツとイタリアは、もう二度目の世界大戦を始めていた。
周りの大人たちにはどんどん召集令状が届き、徴兵年限が満了すると延長された。それでも彼らは、戦気が渦巻く前の日本を知っている。自由主義だとか民本主義だとかが常識とされ、流行歌にうつつを抜かし、煽情的なジャズを楽しみ、パーマやら外食やらが日常的だった時代の中で生きていた。
日本中にいた浦賀と同い齢、大正一二年生まれの男子は、東京音頭とキューバの豆売りくらいしか知らないまま、戦争とともに成長した。徴兵年齢である満二十歳となった昭和十八年は、日本が守勢に転じた年でもあった。同い齢のほとんどは徴兵され、戦死するまで終わらない敗退を続け、あるいは玉砕し、補給が途絶した孤島や密林で死を待った。まさに、戦って死ぬために生まれた世代だった。二十一歳で兵学校を卒業した浦賀は、行き遅れた感すら覚えた。
――ならば死のう。いつ死ぬか。問題はそれだけだ。
おそらく撃沈されるまで戦うであろう響の姿に、浦賀は決心した。志願して軍人を養成する学校に行ったのだから、もともと覚悟はできている。徴兵された者よりも恵まれている、とすら思った。
まもなく響は修理が完了し、呉に回航された。着けば着いたで少ない燃料をやりくりして、帝国海軍伝統の猛訓練があった。
浦賀は艦橋の海図台と二層下の海図室を何度も往復して、予定航路の海図を用意した。上官たちがデバイダーと定規を使って航路や砲の射程、魚雷の射線を海図に描く手つきを、瞬きもせずに見つめた。出航すれば陸地の目印や星を頼りに艦位を測定し、見張りを指揮し、時には自ら見張りに立った。旗甲板で整然と並んで揺れる無数の信号旗を前にして途方に暮れ、艦長や航海長、当直士官の見事な操艦を艦橋の隅から見つめてやはり途方に暮れた。
電探のブラウン管に浮かんだ青白い波をどう理解すればよいか分からず、首をかしげた。ベテラン下士官から丁寧に教えられても、受信した暗号の解読にえらく手間取った。艦橋へ走って訳文を読み上げれば、読み違えた。
上官からは時に褒められ、時に殴られ、下士官兵からは半ば尊敬され、半ばは舐められた。喜んだり、しょげ返ったりしている浦賀の頭上はるか高くを米軍機が悠々(ゆうゆう)と通り過ぎ、その高度まで達せない日本の迎撃機が悔しげに旋回していた。
――死ぬ瞬間まで、死を考えている暇はなさそうだ。
浦賀がそう思った矢先、響の全乗員に小さな白い封筒が二枚、配られた。髪と爪を入れて封をし、等級氏名をはっきり書いてから提出せよ、とのことだった。
何のためかな、爪は切ったばかりなんだがな、なら水虫に悩む俺の足の爪をやろうか。歴戦の下士官兵たちは、しらじらしい無駄話に興じていた。浦賀は小指の爪を少し切った。髪は五厘刈りにしたばかりだったからどうしようもなく、脛毛(すねげ)を抜いた。情けない遺品になったと苦笑し、なぜか晴れがましさまで覚えた。
その日、三月二八日の午後五時半、第一遊撃部隊は呉を出港する。旗艦大和を対空火力にすぐれる四艦で囲み、響など駆逐艦が前衛となる第一警戒航行序列を組んで瀬戸内海を数時間ほど西航して海上で仮泊、翌日午前三時半に航行を再開した。
はじめての戦闘航海となった浦賀は、呉での出港準備のときからずっと忙しく、また気が張り詰めっぱなしだった。そのため若さを超えて疲労していたらしい。見かねた艦長に許されて士官室へ降り、作り付けのソファに腰を下ろしたところで、すとんと眠りに落ちた。ガッと艦内スピーカーが咳きこみ、あわてて目を覚ます。反射的に見た時計は五時半あたりを示していた。
――全員、上甲板に集合。
スピーカーは騒々しくがなり立てる。浦賀は口元のよだれをぬぐいながら士官室を飛び出した。狭い上甲板に上がると、もう乗員がひしめていた。波音が低く、機関の唸りが太く聞こえた。空はほの白く、昇る朝日を背にした大和の艦影がどこか神々しく見えた。
「本艦はこれより、沖縄方面へ向かう」
高い艦橋の窓から上半身を乗り出して、艦長が叫んだ。
「目下、沖縄沖に米艦隊が集結中である。これを撃滅するため、我々は出撃する」
艦隊特攻である、と艦長は続けた。
「お国への最後のご奉公になるやもしれぬ。数々の歴戦を潜り抜けた諸君、熱烈な戦意を持って本艦に配属された諸君の、心置きなき働きを艦長として希望する。武運を祈る」
以上、と締めくくった艦長は、艦や乗員との別れを惜しむかのように姿勢を正した。解散だぞ、持ち場へ戻れ、そら急げ、休めるやつは休んでおけ。そこかしこで下士官が怒鳴り、兵たちはきびきびと駆け出してゆく。
――死ぬ時が決まった。
浦賀は両手で頬をひとつ叩くとゆっくり歩み、艦橋へ上がった。艦長は、休むよう命じたはずだが、と言わんばかりの一瞥だけ浦賀に寄こし、航海長の肩を叩いた。
「ひとつ、空いている」
浦賀より働いている航海長は苦笑しながら、隅を指さした。艦橋に六つ据えられている双眼鏡の一つは、ちょうど誰も使っていなかった。
「感謝します」
浦賀は声を張り、望遠鏡に取りついた。刻々と世界に光が、全身に戦意が満ちてゆく。双眼鏡越しに遠くの陸地を、近くの海を見つめながら、浦賀は笑い出したいほどの爽快さに包まれた。
すぐに陸上から敵編隊接近の報せがあり、響の艦内は「対空戦闘用意」のラッパと足音で騒々しくなる。けっきょく対空戦闘どころか機影も見なかったが、死出の旅立ちを軍楽隊より賑やかに祝ってもらった、と浦賀は思った。
響の触雷は、その半日後に起こる。なんとか自力航行できるまでに回復した響は呉に帰投した。
三日後の四月一日、米軍が沖縄本島に上陸する。
同七日、響を手放した第二艦隊は沖縄へ向かい、はるか手前の薩摩(さつま)半島坊ノ岬沖で、海が沸き立つほど猛烈な航空攻撃を受けた。大和以下四隻が沈没、二隻が帰投不能となり処分された。触雷した響を呉まで護衛したあと本隊に合流した朝霜も、撃沈された。 〈つづく〉
