重たい鎧から解放された
母の入院後も、私はイタリアと日本を行き来する生活を続けています。2ヵ月、3ヵ月とお見舞いの間隔が空き、久しぶりに顔を見るたびに、母の表情はやわらかくなっていきました。少しずつ病気の症状が進んでいる影響もあると思います。食事のスピードも、以前と比べると別人のようにゆっくりになりました。私や妹には決して頼ろうとしなかった排泄の介助も、病院ではやってもらっているはずです。
母は孫であるうちの息子や私のイタリア人の夫がお見舞いに行くと、うれしくてたまらないという顔をします。私が帰るとき、「今度はいつ来るの」と聞いてきて、あの母がこんなことを言うようになったか、と感慨深くなりました。すると夫が、「リョウコはやっと、硬くて重たい甲冑から解放された感じだね」と言ったのです。
これまで母は、世間とか社会に対して気を張って闘い続けてきました。ステージ衣装をまとって楽器を奏で、北海道中を車で巡って音楽の素晴らしさを教え、ともすれば充実した豊かな生活に見えたかもしれない。
けれども家族は、外国人の夫も含めて、彼女の、雑木林を切り拓く開拓者のようなガッツに満ちた本質をよく知っています。開拓者にとって、身体が弱って動けなくなることは一番あってはならないですよね。
特に早くから親元を離れた私に対して、母はあるときからどこか、わが子というよりも男に頼らず生きてきた女同士、シングルマザー同士、という意識を持って接してきた。「誰に助けてもらったわけでなくても、ちゃんと生きてきました」という、娘にとっての永遠のお手本でいたかったのでしょう。最初は抵抗していたけれども、少しずつ自分の病気や老いを認め、受け入れていったのだと思います。
私はというと、母のように子どものお手本でいたいとは到底思いません(笑)。結婚せずに息子を生み、しばらくして年下のイタリア人と結婚して彼の実家に渡り、その後は研究者である彼の仕事の関係で世界のあちこちに移り住みました。
なので、息子はさまざまな国で幼少期、思春期を過ごし、私が経験したことのない苦労もしたでしょう。母は自分が弱っていく姿を私たちに隠そうとしましたが、私はダメなところも全部、包み隠さず息子に見せてしまっている感じですね。親子だけれど、大変な時期を一緒になって乗り越えてきた協力者、みたいな感じです。
歴史的にみても、人間は50歳くらいで歯が抜けて食べられなくなり、胃腸を壊して死ぬという顛末があたりまえでした。それが今は歯を治療し、医者にかかり、脳にガタがくるまで長生きする。昔のほうが自然の摂理にかなっているわけですよ。
今は健康寿命が大切だの、100歳まで生きると前提した人生設計だのと、日本人は大変な努力をしていますよね。私に言わせれば、それこそが甲冑であり鎧です。私は、そんな重いものじゃなくて、なんなら身軽な腰ミノで過ごすほうがいい(笑)。
そこまで長生きにはこだわりません。認知症だろうが心臓発作だろうが、どういう終末を迎えるかは私たちに決められることじゃないですから。