
夢の外側 第10回
5 神秘的な彼女(承前)
「正直に言うと、原田のお母さんは有名人とつき合ってたみたいな話は聞いたことある。元女優だったとか、あの人のせいでバンドが解散したらしいよとか」
「お母さんたちから?」
「うーん、誰かははっきり覚えてないけど、クラスの誰かにも聞いたとは思う。今まで原田に直接は言いにくかったんだけど……」
大哉(だいや)は女子たちとよく話していたから、そんなこともあるだろう。駒子(こまこ)は、噂話を好むタイプだった同級生たちの何人かを思い浮かべた。何組の誰は誰が好きとか塾で誰と誰が喧嘩になったとか、休み時間のたびに教室のうしろで囁きあっていた。
「口コミパワー怖いなあ。伝言ゲームのやばいやつや」
千景(ちかげ)の声には実感がこもっていた。父親の店で子供に聞かせるような話ではないことが耳に入ってきたのだろうし、もしかしたら患者のために奔走するタイプだったという母親のことも、駒子の母のようにあれこれ言う人がいたのかもしれない、と駒子は思った。
少し離れたテーブルで若い男女のグループがときどき大きな笑い声を上げるたびに、大哉はちらちらと見た。その声は駒子と千景の背中側から聞こえてきたが、二人は振り返って見るほどではなかった。
大哉は駒子の表情を気にかけつつ、話した。
「確かに、商店街で見かけた原田のお母さんの姿と、あの映画のあの役はあんまり結びつかないとは思った」
「あんまりっていうか全然だよ」
駒子は大きく息をついた。
「花屋の子、花屋の子って強調してたけど、ちょっとお手伝いしてる程度で、注文間違えたり昔の漫画のドジっ子っぽい感じで、新米バイトかよって」
「職業、って感じではなかったね」
「さっきも話したけど、二十歳になる前から母がメインで店を仕切ってて、早朝から車運転して市場行って。定休日だって、配達してるお得意さんを回ったり事務仕事もあったり。なんでも自分でやらないと気が済まない人だったから、仕事の合間に家のことやって、お客さんにマメに連絡して……」
話していると自分の中の苛立ちが大きくなってくるのを、駒子は感じた。全然わかってない、という思いがその苛立ちの底にある。だけど、誰がなにをわかっていないのか、駒子の中でもずっと錯綜して混乱したままなので、話し始めると思い出してしまうあれこれがばらばらに口から出てきてしまい、そんな自分にもまた苛立ちが募った。
「元々はあの商店街から歩いて十分くらいのとこにある家に住んでたんだけど、バブル崩壊の余波で出ないといけなくなって、それで六年くらいあの店の二階に住んでたんだよね。狭いし寒いし、正直、私はあのお店にあんまりいい思い出はないなあ」
そう……、そうなんだ……、と大哉は申し訳なさそうな相槌を返し、駒子はこれ以上話しても自分の思う方向に話が進まないと気がついて、続きを飲み込んだ。
「家が狭いのって、いろんな事情でしゃあないこととはいえ、環境としてはよくないよな、ってしみじみ思うわ。前に『スノーデン』てアメリカの国家機密を暴露した元CIA職員の映画観たんやけど、そのスノーデンさんが一時期仕事で日本に住んでたらしくて、アパートで彼女と同居してて、その部屋の狭さがめっちゃリアル! アメリカみたいにしっかりした個室もない2DKって感じでさあ、そこに住んでるあいだは彼女と険悪になってて。せやんなあ、ずっと同じ空間で顔つきあわせてたら仲いいもんも悪なるわ、って思った。人間、最低限の個人のスペースが確保されてるの重要やで」
千景の言葉に駒子は何度もうなずき、大哉は少し笑った。そしてその笑いの流れに乗って、大哉は言った。
「実は、原作の本のほうも、読んだんだ。本では花屋にかわいい子がいるとは書いてあったけど仕事や家族のことは……」
「えっ」
と声を上げたのは、千景だった。
「ダイスケ氏のエッセイ本、持ってるってことですか?」
テーブル越しに身を乗り出す千景に、大哉はたじろいだ。
「あ、はい。古書で入手しまして」
「それ、貸してもらえます? もしかして、今日ここに持ってきてるとか?」
「いえ、チームのスタッフが読みたいっていうので職場に置いてきました」
「あー、そうなんかー。じゃあ、その次はどうです? なんやったら、お近くまで取りに伺いますから」
笑顔の千景と、表情を変えない駒子を、大哉は順に見た。
「お貸ししますが、清水さんに? 原田に?」
数秒考えて、駒子は答えた。
「先に、千景さんで」
千景はほんとうに大哉の職場まで取りに行くつもりらしく、場所を聞くと千景の仕事先の一つと近かったようでさくさくと受け取る日時を決めた。
「そのエッセイ本と映画って、だいぶ違うんですか?」
「ダイスケさんの半生記みたいなもんだから花屋の女の子のエピソードは一章だけでしたね。確かに印象に残る話ではあったんですけど。結婚相手のことは、ぼくたちとは違ってちゃんとした職についている真面目な男と結婚したと聞いた、みたいな感じだったかな」
大哉はその部分を思い出しながら続けた。
「一度だけ、花屋の店先に彼女を迎えに来た男を見たことがあった、きっと彼に違いない、って」
「めっちゃ憶測ですやん」
即座に千景がツッコミを入れ、駒子は声を上げて笑ってしまった。
「はあ、まあ、そうですよねえ」
大哉の声や笑みは曖昧なままだった。
胡麻団子か杏仁豆腐かマンゴープリンかどれも頼むかを相談するあたりで、大哉が聞いた。
「じゃあ、原田のお母さんは今はお一人で暮らしてらっしゃる? あの近所で?」
「五年前に、フラワーアレンジメントの生徒さんだったお金持ちの奥さんに誘われて長野に移住したよ。その奥さんが始めたカフェに併設した教室がメインで、近くのお店やホテルで出張講座もやってるみたいね」
「へえー、それもすごいね」
「その話のほうがドラマっぽくておもしろいんじゃない? 夫を亡くして心機一転移住とか、主婦が起業とか、前向きにがんばるほうが、観る人も応援してくれそう」
話しながら、駒子の頭の中には現在の母の住んでいる場所が、きれいな青空と森に囲まれたログハウスという「素敵な暮らし」と題された特集の写真みたいな景色で浮かんできた。駒子はまだそこに行ったことがなかった。これからも行く予定はなかった。
帰りの電車はかなり混雑していた。
あとからあとから乗り込んでくる乗客たちに押されて、駒子と千景は車両の奥のほうへ少しずつ移動し、ちょっとねじれた姿勢で吊革につかまった。
揺れに耐えながら、千景が言った。
「お互い初めて聞く話けっこうあったなあ」
「そうね。いろいろ話してるつもりでも、あらためて時系列で説明したりしないしね。私も、千景さんのお父さんが飲み屋やってたのは、ちらちらとは聞いてたけど」
「あー、ほんまになあ、あの人は困った人で」
千景の笑い声には諦めと慈愛みたいなものが含まれていた。
「まだお元気なんだっけ」
「うん。不健康不摂生の見本みたいな人やのにな。人間、だいたいのことは生まれつきと運で決まってんちゃうかなって思うことあるわ」
「そうだねえ」
「でも、健康的な生活しといたほうがええよ。睡眠と運動だいじ」
「ほんとに」
「それからよくないんはストレスやな。うちの父親、ストレスはなさそうやもん」
「あ、そうか」
駒子は笑いながらも、さっきまでの大哉との話を思い返していた。
「大哉に対しても、職場でマイマイさんの話聞いてても、言いたいことがある、って思ってたんだけどね。いざ話すと、なんか親に対する不満や愚痴みたいな感じになっちゃうじゃない? それで、話をしかけてやっぱりいいか、って思っちゃう。この年になっていつまでも親のこと言ってるのもな、って気持ちもやっぱり抜けないしさ。自分でも整理できてないからそうなるのかな」
「せやね。私も別にうちの母と父の話をするつもりじゃなかってんけど、なんていうか、ダイヤさん、受け答えがほんわりしてるから、つい、ネガティブなことを言いたくなってもうて」
車輪とレールが軋む音が響き、お互いの声はところどころ聞き取れなかった。
「わかる。千景さんもそうかなって思ってた」
「ドラマがヒットしたらご両親が近所の人に言うの、認めてくれたというよりは自慢やんなあ。褒めるのと自慢するのの区別ついてない親は多いんやけどさ。妻氏、苦労してそう」
「まあ、大哉のああいうちょっとほわっとしたとこもいいところなんだよ。女子の間でちょっと諍いが起きてるときも、全然気づいてない大哉が明るく話しかけてきてなんか気楽になれたことあったし」
「そうやな。そういう人、貴重ではあるな」
すぐ前の席に座る人は皆、背を丸めて掌の小さな画面に見入っていた。次々届くメッセージか流れていく動画か色とりどりのブロックがくっついていくゲーム。この小さな画面を持ち歩いていないときにどうやってこの混雑しすぎた車内の時間をやり過ごしていたのか、自分のことなのに駒子は思い出せなかった。
「本、貸してくれるかなあ」
千景が、暗くてよく見えない窓の外に目を向けて言った。
「めっちゃ憶測、のやつ」
駒子は千景の言い方を真似て笑った。
部屋に帰ってから、携帯に着信があったことに駒子は気づいた。
「母」の表示に一瞬どきりとしたが、人とおいしいものを食べて帰ってきたエネルギーが残っているうちに聞いてしまったほうがいいと思って、上着も脱がずに台所で立ったまま留守電のメッセージを聞いた。駒子、あのね、といつものとおり前置きなく始まる早口の声が聞こえてきた。
花屋だった家屋を来年の三月末で退去することになったから持っていく物があるなら取りに行くように、というのが用件だった。ついでに置きっぱなしの荷物をできるところだけでも整理してくれたら助かるんだけど、それはまあいいわ、それで駒子、どうしてるの、たまには連絡しなさいよ、ほんとうにあんたは愛想がないんだから、いちばんだいじなのは愛嬌よ、人と人とのつながりがなかったら生きていけないんだからね、と言ったところで誰かから呼ばれたようで唐突に録音は切れていた。
夕方の音楽教室が忙しくなる時間の前に、駒子は休憩に出た。
駅近くの裏通り、接骨院の二階にあるカフェはこの時間は客も少なく、ゆっくり過ごせた。窓際のテーブルで根菜カレーを食べようとしたところで、
「原田さーん!」
と呼ぶ声が響いた。そんなに大きな声を出さなくてもわかるのに、と駒子は店に入ってきたマイマイ長谷部(はせべ)を見た。
「ここ、座っちゃってもいいですか」
断られる選択肢を想定していないのに質問形式にするよな、この人は。駒子はそう思いつつも、自分の皿を手前に移動させた。
「どうぞ」
「いやー、ここおいしいし、この時間だと混んでないからゆっくりできて貴重だよね。ごめんなさいね、邪魔しちゃってますよね」
「自覚はあるんですね」
「厳しいなあ、原田さんは」
まったく気にする様子もなく、長谷部は駒子と同じカレーセットを注文し、この店のあれはおいしい、これもおすすめ、と駒子がとうに知っていることを解説してくれた。それから、今日担当のレッスンをすでに終えて、ここで軽く食べてからバンドの新アルバム発売記念ライブのリハーサルに行くのだと話した。
店内にはカウンターに本を読んでいる男性が一人いるだけだった。聞き覚えがあるが誰かは思い出せない女性ボーカルの弾き語りが流れていた。
駒子はふと思いついて聞いてみた。
「ザ・ラストサウンズの音楽って、どういうとこがよかったんですか?」
「もしかして、興味持ってくれたんですか? 気になってきた?」
長谷部は太いフレームの眼鏡の位置を直しながら、目を輝かせた。
「いえ、概要を知りたいだけです。配信にないしどういう感じなのかよくわからないから」
「うれしいなあ。確かにね、配信に入ってくれたらもっと若い人にも聴いてもらえるのにって思うんですよ。配信のシステムにはミュージシャンとしては不満はあるんですけど、時代もジャンルも問わず聴きやすくなったっていうのは大きいよねえ。ほら、最近人気のあのバンドも……、あ、ラストサウンズの音楽性ですよね、ハードロックに歌謡曲的とも言えるポップな歌が乗っているのがなんといっても個性的なんだけど、その歌謡曲的なポップさと哀愁はやっぱりダイスケさんのセンスが発揮されてると思うんだよね……、ダイスケさんははっぴいえんどのファンだからね、エッセイを書いたのも松本隆に憧れてたからじゃないかなあ、でもはっぴいえんどが再評価されるのってもっと後だからさ……、当時は……」
わかるようなわからないような長谷部の解説に適当な相槌を打っていた駒子は、話が少し途切れたところで聞いた。
「ラストサウンズの音楽って、映画で使われてる『明日の世界』みたいな曲ばっかりじゃないんですよね」
「そう、あれはダイスケさんの音楽性が色濃く反映されてる名曲なんだけど、……あれ? 『明日の世界』は曲知ってる?」
長谷部はスプーンを持つ手を止めて、駒子を見た。
「映画、観たんで」
「えっ。えーっ、ほんとですか? 観てくれたんですか! うれしいなあ、ありがとうございます!」
静かな店内に、また長谷部の声が響いたが、カウンターの男性は気に留めていないようだった。
「それでそれで、どうでした? いやあ、マリアちゃんの娘さんの感想聞けるなんて、おれ、めちゃめちゃ幸運」
「訂正する気力もなくなりますけど、言っときますね。あの映画の女の人と母とは関係ないし、あの女の人の娘とか言われても意味がわからないです」
「はい、そうでしたね。申し訳ございません。原田さんに言われて、よーっく自分に言いきかせたつもりだったんですけど、やはりラストサウンズと『明日の世界』関係のことになると、おれの青春の心のいちばん柔らかいところがぱっと出てきてしまって。はい、そうですね、原田さんが初めて『明日の世界』という映画を観てどうだったのか聞かせてもらっていいですか?」
「おもしろかったですよ。ケイスケとジョージの会話とか、バンドのメンバーの関係が微妙になっていくとことか、雰囲気がよくわかるなって思ったし、街の風景とストーリーがうまく合ってたなって。まあ、三十年以上前の映画っていうのもありますからね、今観るとどうしても、気になっちゃうところはありますね。男性と女性の描き方の違いというか、差というか」
「やっぱりポリコレ的なことは気になっちゃいますか。そこはおれなんかおじさんだから、なかなかアップデートできてなくってすみません」
長谷部はわざとらしく頭を掻くようなしぐさをした。
「そういうことではないんですけどね。もっと前に観てても、なんでこの女の人はわけわからない行動ばっかりしてしかも変なとこで泣くんだろ、とは思ったんじゃないですかね」
「男は、女の子に泣かれちゃうと弱いからねえ。あのうるうるしたバンビみたいな目で見つめられると、理由なんかどうでもよくなっちゃうんだよ」
そういうことではないんですけどね、と今度は駒子は声に出さなかった。
「そもそもあの映画、バンドの話というか、ケイスケとジョージの話ですよね」
「そうなんですよ。さすが原田さん、わかってるなあ。音楽への情熱や青春時代への哀惜や複雑な思いが、押しつけがましくなくちょっとしたやりとりだとか歩く後ろ姿なんかに表されてて、名作、ほんとに」
「マリアは、場面場面の盛り上がりには役割が大きいけど、結局ケイスケとジョージと、他のバンドの人たちの関係性にはそれほど深い意味はなかったんじゃないですかね」
「マリアが理屈にとらわれずに曲の良さを見抜いたから、ケイスケは自分の音楽に確信が持てたし、それがバンド自体の音楽性を決めた。その存在は大きいですよ」
「うーん、それも後付けっぽい感じがしたんですよね。マリアがいいって言っても言わなくても、ケイスケは自分がやりたい曲を選んだと思うんですけど」
それはそうかもだけどダイスケさんは……と長谷部はごにょごにょと思いつきの理由を連ねた。それから、両手でテーブルを軽く叩いて、
「それに、やっぱりほら、マリアがケイスケとジョージを二股かけたことが亀裂につながったわけで」
と言った。
「二股?? そんな話ありました?」
今度は駒子が大きな声を出してしまい、カウンターの中でコーヒーを淹れていたスタッフの女性がちらっとこちらを見た。
「海に行ったあと、どっちともつき合ってたじゃない。ダイスケさん、いや、ケイスケもジョージもお互いにマリアと関係を持ってたって知ったら、そりゃあショックでかいよねえ」
「ちょっと待ってください。そんな場面なかったですよ。もしかして、公開されたのとはバージョンが違うとかですか? 私が観たのだと、ケイスケとジョージがそれぞれにマリアと出かけてる場面はあったけど、楽しそうに歩いたりしゃべったりしてただけで、二人とも関係を持ってたとか、ケイスケとジョージがそれを知ってショック受けたとか、そんなのはなかったです」
千景の部屋で観た映画の場面を思い出そうとしながら、駒子は言った。あのとき、千景も衣里もそんなことは言っていなかった。
「直接的な表現はなくても、お約束的なものだと思うけど? あの二人と別々にデートしてる場面で流れてた曲は『きみの嘘と夜の中』で、好きな女の子が嘘をついていたけどその嘘こそ彼女のとても素敵なところでほんとうのことなんだ、って歌詞で……」
「それ、元のエッセイにも書いてありました? 二股だとか解散の原因だとか」
「そうじゃないけど、ファンの間の定説で」
「定説?」
裏返りそうな声になった。駒子は苛立ちを抑えようとした。
「公式になにか言ったり書いたりしてるわけじゃないんですね」
駒子の険しい表情に、長谷部はたじろぎつつ答えた。
「まあ、オノ・ヨーコのせいでビートルズが解散したっていうのも長く言われ続けてたけど、近年はポールやリンゴが否定する話をしてはいるよね。でも、全然関係なくはないと思うんだよ。魅力的な女性がいると周囲が波立つのは、仕方がないことでその女の人が悪いわけじゃないからさ。今どきはサークル・クラッシャーとか言うんだっけ?」
「それはあんまりいい意味では使わないと思いますよ」
「あ、そう? 解散の原因説は違うとしてもさ、ストーンズにおけるマリアンヌ・フェイスフルとか、破滅的だけどシド・ヴィシャスにとってのナンシー・スパンゲンだって、運命の女的な存在が音楽活動に多大な影響を与えるってのはいつの世もあることなんじゃないかなあ。おれもいつかそういう女の子に出会ってみたい、って若い時は思ってたしさ。あ、今、おれのこと馬鹿だって思ったでしょう」
駒子は、そうだとも違うとも答えなかった。
長谷部は運ばれて来たコーヒーを、砂糖も入れていないのにスプーンで混ぜた。
「まあ、これは真面目に話すんですけど、ダイスケさんのあの音楽が、花屋の天使みたいな女の子と出会ったことで生まれたなら、それは素晴らしいことだと思うんですよ、純粋に」
長谷部は窓の外へ、遠い思い出を見るような視線を向けつつ話した。ガラス越しに見えるのは向かいの雑居ビルの白いタイルの壁だった。店内に流れる音楽は、いつの間にか英語のフォークソングに変わっていた。
「『明日の世界』の映画だって、エッセイの中の短いエピソードに監督が多大なインスピレーションを受けて、さらにミーコっていう超魅力的な女の子がいたから生み出されて、おれみたいな、観てから三十年も経つのに忘れられないやつがいるわけで」
長谷部の声には長い間持ち続けた思いが込められているのはわかった。しかし、彼が話しているのが自分や千景が観たのとほんとうに同じ映画のことなのか、駒子はわからなくなり始めていた。
「もちろん、勝手なことを言われて原田さんや原田さんのお母さんにはご迷惑なんだとはわかりますが、有名人、テレビやなんかで名前の出てる人とは違って、あのエッセイを読んだり映画を観たりしても、原田さんのお母さんだってわかる人はほぼいないわけで」
「だからって、あんなふうに都合のいい設定をあれこれくっつけて全然違う人物像にしてしまったから、勝手なイメージを持たれて」
「違うっていうのはむしろ、実際の『花屋の女の子』から変えようとしたってことじゃないかなと、考えたりもするんですよね。原田さんが観て全然違うって思うってことは、実際の原田さんのお母さんを知っている人には原田さんのお母さんの話じゃないってわかるっていうことだから」
「そうじゃないんですよ」
駒子は声を強めた。
「全然、そうじゃないんです。母と関わりがある人も、父の親戚でさえも、母は若いころにバンドマンのいざこざの原因になったんだと噂してました」
「あ、そう……」
長谷部はやっと申し訳なさそうな顔になった。
「しかもたぶん、噂した人たちは映画自体は観てないのに」
「……まあ、おれも、ちょっとテレビ出たりしてる時期にはいろいろ言われたから、わかります」
「わかりますか?」
「そうですね。子供のことを書いたり話したりするのをやめたのも、尾ひれがついてネットに書かれちゃうってのがあったし」
「そういう経験があるんでしたらなおさら、私の母をあの映画の、エッセイの女の人と、結びつけるのはやめてほしいです」
「その通りですね。すみません」
普段よりも謝る気持ちが感じられる声だった。うつむいている長谷部を見ると多少同情のような気持ちが湧いた。
「長谷部さんが、ラストサウンズの音楽やあの映画を好きなのは自由ですから」
駒子が言うと、長谷部はありがとうございますと言った。
しばらく沈黙があり、駒子はスマホで時間を確認した。カウンターにいた男性客が帰り、学生らしき女性が二人入ってきた。
「中島麗子さんが」
長谷部が言い、駒子は視線を戻した。
「原田さんと話したいって言っていました」
別の教室でピアノを教えている中島麗子には、駒子は今の職場に移ってからは会う機会がなかった。
「他に何か言ってましたか?」
「いろいろ思い出したことがあって、って言ってたかな。たぶん、麗子さんも映画を観たんだと思います」
「そうですか」
「いや、でもとにかく、原田さんがザ・ラストサウンズに興味持ってくれたってのはうれしい限りですよ。原田さんぐらいだからなあ、マイマイ長谷部のマイマイがニール・ヤングの曲から来てるって言ったら、ああ、ヘイヘイマイマイの、って返したの」
「名前負けですよ」
ははは、と長谷部は形だけの笑いを返した。
休憩時間の終わりが近づき、駒子が席を立ちかけると、長谷部が言った。
「お母さんは、あの、これは映画の中の花屋の女の子じゃなくて、原田さんのお母さんのことなんだけど、お父さんと結婚して幸せになったんだよね?」
眼鏡の奥で機嫌をうかがうような目の長谷部を、年を取っているのか若いのかわからない顔だ、と駒子は思った。
「なんで聞くんですか?」
「幸せになっててほしいじゃないですか。多少なりとも、ザ・ラストサウンズの音楽に影響を与えた女性には」
長谷部は微笑んだ。
「ダイスケさんも書いてたんだよね。ぼくらみたいないい加減な男たちよりも、真面目な男のほうが彼女を幸せにできるから結婚してよかったのだろう、って」
今、長谷部の頭に浮かんでいる「真面目な男」は、映画の中でBMWに乗ってきたあのおぼっちゃんみたいな男なのだろう、と駒子は思った。
(つづく)

