イラスト:川原瑞丸
ジェーン・スーさんが『婦人公論』に連載中のエッセイを配信。ある日、父との遠出の最中に、スーさんは親の老いを感じてーー(文=ジェーン・スー イラスト=川原瑞丸)

並列回路の介護

先日、父と少し遠出をした。と言っても、電車で隣の県に行く程度のことだけど。

道中、父の体力がもつか気が気でなかった。見た目は若いが、歩く速度は年々遅くなっているし、食べる量も少しずつ減っている。父は「元気だが、油断はできぬお年頃」の真っ最中なのだ。

駅で待ち合わせ、電車に乗る。席についたものの、一旦座ってしまうと、次に立ち上がるのが難儀そうに見えた。降りたら降りたで乗り換える線を間違えそうになったので、こっちだよと私が腕を引く。いろんなことが、少しずつおぼつかない。臆せずどこへでもひとりで出かけていけるのも、あと数年のことかもしれない。

本人は95歳でピンピンコロリを所望しているが、望んだ通りに人生の幕を閉じられるとは限らない。つまり、私が介護に多くの時間を割くことになる未来は、十分にありうるってこと。

本連載をまとめたジェーン・スーさんの著書『これでもいいのだ』

両親の介護が一度に始まった女友達は、特養探しに明け暮れていた。長く臥せっている母親を父親と協力して自宅介護していた男友達は、父親の介護も必要になったタイミングで仕事を辞めた。もちろん、どちらの家族にも優秀なケアマネージャーが付いており、福祉制度はフルに活用している。それでも、想像以上に家族の手が必要になる場面があると言っていた。心身のケアに加え、さまざまな申請書類を書いたり、介護の方針を決めたりしなければならぬからだ。年金だけでは賄えぬ部分が出てくるという話題も共通している。介護を一手に担う友人たちに兄弟はいるが、姉妹はいない。

これまで、家事・育児や介護といったケア労働は、嫁の役を割り当てられた女が無償で担っていた。「稼ぎ手」は、父や息子の役割だった。しかし時代は変わり、核家族の共働き世帯が増え、老人はどんどん増えていく。老人が悪いわけでも、若者が悪いわけでもない。経済が悪いのだ。

家族の誰かが家庭に入れば済む話でもない。有償労働にしろ、家事・育児に代表される無償労働にしろ、すべての役割において、それを誰かひとりに押し付けるやり方は、行き止まりを生む。

私は母を早くに亡くしたから、今後、父母の介護を同時に行うことは物理的にありえない。子どももいないので、子育ての時間も費用も必要ない。多くの人に比べたら、気楽なものだ。

お気楽気取りの私にできないことは、家族と連携を取って協力すること。父とパートナー氏と私の3人は電池にたとえるなら直列回路で、並列回路のように業務を分散したりマンパワーを2倍にしたりすることは難しい。

私の周りの若い共働き世帯を見ると、妻と夫それぞれが、家事・育児と有償労働のどちらもある程度担えている様子。「お母さんがいないと下着の場所もわからない」とか、「お父さんが仕事を辞めたら無収入」なんてことはない。

この世代が親の介護に関わる頃には、子どもも含めみんなでさまざまな役割を少しずつ分担できるようになるだろう。それが、家族が生き残る道になる。だって、日本経済が飛躍的に回復するなんてことは、いまのところ考えられないのだから。


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