五
これ、お酒なんですか。
それが珍陀酒を一口味わった後の、お春の呟きだった。
「そうなんだよ。不思議な味だろ。酸っぱいのか甘いのか、よくわからないような、ね」
「ええ、でも、美味しいですよ。とても、美味しい」
濃紅色の酒の味を確かめるように、お春は束の間、目を閉じた。
「そういえば、お春さんは、いける口だったね。樽酒を飲み干せるとか聞いた気がするよ」
「また、そういういい加減なことを。誰から聞いたんですか、そんな噂。おおかた、おゑんさんが今、勝手に拵えたんでしょう」
「おや、大当たりじゃないか。このごろ、やけに鋭くなったね」
「ええ、ぼやぼやしていると、大酒飲みの大食い女にされてしまいますからね」
お春が澄ました顔で言うものだからおかしくて、おゑんは笑い声を立ててしまった。
お春もくすくすと軽やかに笑う。
「このお酒って人を陽気にするんでしょうかね。何だか楽しくなってきましたよ」
「そうだね。どう思う、末音」
おゑんは傍らに座っている末音に声を掛けた。末音は小さな湯呑を両手で包み込むようにして、口に運んでいる。
夜が更けようとしていた。患者たちを診て回り、赤子たちの様子を窺い、やっと一息つける刻だ。おゑんはお春と末音を部屋に呼び、珍陀酒を振る舞った。
お春は想像した通り驚きも喜びもしたが、末音は静かだ。ほとんどしゃべらず、ゆっくりと異国の酒を味わっている。
「……そうですなぁ。まあ、お春さんは、なかなかの酒豪ですからの。どんなお酒でも楽しく飲めるのでは、ありませんかの」
「まっ、嫌だわ。末音さんまで、あたしを呑み助みたいに言わないでくださいな」
お春がわざと顔を顰める。末音は口元を僅かに綻ばせた。
「末音、おまえ、珍陀酒は初めてかい」
「いえ、これで二度目、ですかの」
「一度目はどこで、お飲みだい」
末音の故国は海の遥か彼方にある。その国では珍陀酒を造っているのかもしれない。諸白(もろはく)、片白()かたはく、濁り酒……日の本の酒のようにさまざまな種があるのかもしれない。
「先生のお部屋でしたの」
「お祖父(じい)さまの?」
「はい。大奥さまもご一緒にいただきましたの」
祖父と祖母と末音。三人が珍陀酒を飲んでいる。今のおゑんたちのように。
その図がどうにも浮かばなくて、おゑんは僅かに眉を寄せた。
おゑんの小さな戸惑いを受け止めたのか、末音はゆるりと語り出した。
「あれは、どれくらい前になりますかの。おゑんさまがまだお小さいころです。だから……ええ、もうずい分とずい分と昔ですの」
「何でずい分とを二度も続けるんだい。あたしが、えらく歳を取ってるみたいに聞こえるじゃないか。止めておくれ」
「ほほ、おゑんさまでも自分のお歳を気にされますかの」
「歳なんか幾つでも構わないよ。けど、これまで生きてきた年月ってのは、否応なくのしかかってくるからね。そこのところは覚悟しとかなくちゃと、そう思ったまでさ」
末音の眸が横に動き、おゑんに向けられた。
「それは、お身体のことですかの。それとも、これまで為してきた事柄について仰っておられますかの、おゑんさま」
「為してきたことも為してこなかったことも、皆ひっくるめて言ったつもりだけどね」
末音は僅かに頷き、語りを続ける。
「先生がどうして、珍陀酒を振る舞うてくださったのか、ようわかりませぬ。先生が流れ着いたとき持っていた数少ない荷物の中の一品(ひとしな)だったとか。今、いただいておりますこのお酒より、もう少し酸い味がきつかったように覚えておりますの。三人で飲み終えて、瓶の中身が空になったとき、先生が『これで、全てなくなった』と呟かれましての。今でも、そのお声が耳に残っておりますよ」
これで、全てなくなった。
どんな想いを込めての一言であったのか。
おゑんは湯呑の中の酒を一口、すすった。
「あのとき、先生はこの国で生き続ける覚悟をなさった。そう思うております」
おゑんの胸内の声に答えるかのように、末音は言った。淡々とした口調だった。
「後で大奥さまから伺いました。医療道具や本を除いて、あのお酒とお召し物だけが、先生の生国の品であったそうです。お召し物はとっくに古布になってしまっておりましたし」
「つまり、瓶の酒を飲み干せば、お祖父さまと生国を繋げる物はなくなるってわけだね」
「はい。先生はわたしたちと最後のお酒を飲み干すことを選ばれました。大奥さまとこの国で生きていくと決めた。そのための儀式だったと、今になって思いますの」
「そうかい……」
祖父は己の決意に従い、生きた。医者として多くの患者を診て、救い、敬われも喜ばれもした。そして、非業の死を遂げた。最期を迎えたとき、祖父は自分の生き方を、選んだ道を悔いただろうか。
確かめる術はもうない。
「では、おまえは見届け人だったんだね」
「はい?」
「お祖父さまの覚悟を見届ける役目を、おまえは果たしたんじゃないのかい。というか、お祖父さまは、そのためにおまえに同座してもらいたかった。あたしは、そう思うけどね」
これもまた、確かめようがない想像だった。
「そうですの。あのころは、わたしも若うございましたから、そこまで思案が至りませんでしたが、先生のお心の内はどうだったのでしょうの。ともあれ、珍陀酒を口にするのは、あのとき以来でございます。さすが、吉原の惣名主ともなると、何でも手に入りますの」
「まあ、そうだろうね。けど、惣名主が酔狂で異国の酒をくれるわけがない。そこんとこは、末音もお春さんも、よくわかっているね」
末音は唇を結び、お春は自分の手許を見詰めている。
川口屋平左衛門とのやりとりのあらましは、珍陀酒を飲む前に告げてあった。末音もお春も、その事実を改めて噛み締めているようだ。
「吉原で、あたしのことをあれこれ穿(ほじく)っている男たちがいる。そのうちの一人が殺された。惣名主はその事実を軽く見ちゃあいないようでね。吉原の火種になるとまで言い切ったのさ。火種が大きくなれば、吉原を炎上させる炎にもなると危ぶんでいるんだろう」
顔を上げ、お春が口を開いた。
「惣名主は、おゑんさんが火種になるかもと考えているわけですね」
「まあ、言っちまえばそうだろうね」
「おゑんさん、心当たり、あるんですね」
お春が湯呑を置き、僅かに膝を進めた。
「誰かが自分のことを探っている、その心当たりがあるんじゃないですか」
お春はおゑんに真っ直ぐに身体を向けてくる。
おや、この人、いつの間にこんなに他人に迫れるようになったんだい。
つい、心内で呟いてしまった。
お春は何事にも控え目だった。話に口を挟むことも、何かを決めつけることも滅多にない。そのお春が常になく強い口調で問うてきた。
酒の酔いのせいではない。
「そうでしょ? それなら、その心当たりを話してくださいな。話せないなんて言わないで、ちゃんと聞かせてください。その上で、あたしたちにも一緒に考えさせてください。これから、どうするか。何をすべきかを」
お春が湯呑の酒を飲み干した。さらに続ける。
「おゑんさんは何でも一人で背負い込むじゃないですか。それは、すごいことだって、わかっています。周りに押し付けも放り投げもしないで、自分で全てを引き受ける。ええ、すごいことです。あたしは、そんな人をおゑんさん以外に知りません。だから、いつもいつも、感嘆してました。感嘆するぐらいしかできなかったんです」
(この章、続く)












