(写真提供:Photo AC)
国士舘大学大学院客員教授・八幡和郎先生は、「近代日本において、全国のどこで生まれても地元の各都道府県に名門高校があり、良質な高校教育を受けることができることは国力の源泉となってきた」と語っています。当連載では、そんな八幡先生の著書『日本の名門高校 - あの伝統校から注目の新勢力まで -』から一部を抜粋し、全国の名門高校をご紹介していきます。今回取り上げるのは「堀川高校」です。

堀川高校 市立/共学/京都府京都市中京区

「堀川の奇跡」で公立高校復権の旗手になる

戦後の京都府では、昭和25年(1950)から「総合選抜」という入試制度が行われ、公立高校志願者は、自分の住む学区内の近隣の高校にしか行けなくなった。その影響で、多くの進学校が凋落していったが、最初のころは、旧一中だった洛北高校、「府一」だった鴨沂高校といった名門高校が優位を占めていた。

たとえば、昭和32年(1957)には、京都大学の合格者数は、洛北高校が53名で1位、鴨沂高校が37名で2位、そのほかでも朱雀、紫野、山城の各高校が20名を超えていた。しかし、昭和40年(1965)になると、私立の洛星高校が3位となる一方、公立では鴨沂高校の13位が最高となった。そして、昭和50年(1975)には、上位20位に公立高校の名前を見ることはできなくなり、公立高校から京都大学に合格するとしても、現役はほとんどいなくなった。この制度を導入した革新系知事の蜷川虎三は、「15の春を泣かすな」といったが、そのかわりに、「18の春を泣かす」ことになったのである。

しかし、京都では、平成25年(2013)に総合選抜制度が廃止され、その後の全国的な公立高校復興の流れのなかで、まず市立高校の改革が図られ、堀川高校が躍進した。堀川はもともと市立第一高女の系統を引く。

平成11年(1999)の校舎建て替えと同時に「人間探究科」「自然探究科」が設立され、探究科1期生が卒業した平成14年(2002)には、国公立大学への現役合格者数を前年の6名から106名に増やした。そのうち京都大学は6名だったが、翌年は11名、2年後には40名となった。教頭・校長として指揮を執り、「堀川の奇跡」の立役者といわれる荒瀬克己は、その決め手として、「批判的な評価も多かった公立高校が、教職員の頑張り次第で変われると認めてもらえたこと」と「『課題探究型』の学習が、大学入試と矛盾しないものだと理解してもらえたこと」の2つをあげている。