本自叙伝が掲載された『婦人公論』昭和11年10月号

瀧廉太郎も求婚者の一人

さて、話を前へ戻そう。

其頃、毎日家に届けられる恋文の束はますます殖(ふ)えて来るし、どこそこの子息は自転車小町に夢中になって、ふらふら病になった、全く今時そんな話を聞いたら、おかしくて信じられないような話が、後から後からと出て来て、私を少なからず苦しめたものだ。其間も、私が藤井と結婚しているのを知らないから、絶えず求婚者があって、まあ私はその頃随分人気者の一人に祭りあげられていたのだ。

音楽学校の助教授をしていた、瀧廉太郎氏、これはあの有名な「荒城の月」の作曲者だったが、そんな人も私のピアノの先生で、且(かつ)又求婚者の一人だった。この瀧氏が生きていられたら、今頃は立派な作曲家の一人になっていられたろうと思うが、惜しいことに亡くなってしまわれた。

十八の夏休みには、藤井に呼ばれて支那の藤井の勤めている兵営へ出かけて行った。

此時は丁度新婚早々別れてしまったままではあり、私も決して嫌いな藤井ではなかったから、その官舎での新婚生活一ヵ月は、全くよそ目には余る程のむつまじいものだった。

藤井は兵隊を一人使って暮らしていたが、その兵隊が、とても奥さんとの間が甘くて見ていられないとこぼして歩いた位(ぐらい)で、近所隣の奥さん連の羨望の的になった程、藤井の可愛がり方は激しかった。翌年の夏は藤井が支那から帰って小倉にいたので、また小倉に行くといった風で、卒業迄はそんな風に暮らしていて私も藤井も少しも不満を感じなかったのである。

 

日本で最初の御前演奏に臨んで

音楽学校では、私は予科の時から声楽が専門だった。音楽学校時代に何といっても私の忘れられぬ思出は、昭憲皇太后の御前で、日本で最初の御前演奏をした時のことだった。曲目はメンデルスゾーンのジエルサレム、ユンケル先生がオーケストラを指揮して下さった。この時は、何しろ身に余る光栄ではあり、一世一代の晴(はれ)の舞台であるしするので、一週間も前からおかゆと玉子ばかり食べて喉を大切にしていた。

恐る恐る御見あげ申す 陛下は純白の御召物に、お胸には紫色のすみれの花束が匂っていらせられた。歌い終って尊くも御拍手をいただき、いざ御退場という時、そこに立って御見送り申し上げていた私の方を、あの何ともいえぬ涼やかなお美しいお目で、じっと御覧あらせられた。その時の私の身の引きしまるような深い感激。この感激こそ自分は一生忘れまい。この感激のためにこそ、私は音楽に自分の一生をささげようと、はじめて、深く深く心に決する所があった。

かしこくも其際、私は羽二重の着物を頂いたのであった。

それからは在学中にも拘わらず、方々の音楽会に出るようになった。いつでも安藤幸子女史や、幸田延子女史と一緒だった。

日本にドイツ皇族のフォーヘン・ツオルレン殿下がいらっしゃった時も、英国のプリンス・コンノートがおいでになった時も、私達は御前演奏を申しあげ、いろいろ御賞めの言葉を頂いたり、御写真をいただいたりした。

こうして音楽学校の四年間を特待生でおし通し、二十一歳の時には学校を卒業して研究生となったが、其頃声楽をする人があまり無かったので、どこの音楽会でも私は引っぱりだこであった。