(右)音楽学校時代の環女史(誌面より)

「僕のために音楽をすててくれるかい」

丁度藤井は上京していて、麹町三番町に家を持っていたが、私は弟子を四十人も持っており、学校はあるし、音楽会はあるし、席のあたたまる暇もないという有様で、全く奥さんとしてはいい奥さんではなかったようである。

けれども私からいわせれば、藤井に対しては、自分としての出来るだけの愛情はかたむけたつもりで、まだ藤井が支那にいる頃、私はある時、一生懸命に藤井に送るセーターを編んでいた。丁度そこへ私の親友の横山いと子さんが遊びに来ていたが、ふと自分で気がついて見ると、右の脇の下に大きなぐりぐりが出来ている。「あら、おかしいわ」と思って考えて見ると、これはたしかにペストだと思ったのだ。どういう訳でペストだと思ったのか知らないが、私は何匹も猫をかっていたからその猫からペストがうつったのだと思いこんでしまった。

「おいとさん、私はどう考えてもペストだわ、これから直ぐ病院へ入りますからね、どうぞ後々のことをお願いしますわ」

おいとさんも驚いてすぐ入院した方がいいという。私は机に向って泣き乍ら藤井へこれがお別れになるかも知れない、という手紙を書き終えて、忙(あわ)てて病院へ出かけたが、実際はペストでも何でもなく、あまり熱心に藤井のセーターを編んだのでしこりが出来たのだいうので大笑いであった。ところがその手紙を受けとった藤井は大笑いどころではなく、とるものもとりあえず。支那から東京迄飛んで来たのである。

私はこんな風な女なのであった。

が、東京に於ける藤井との生活は、お互いに深く愛し合ってはいたけれど、私の音楽家としての生活が、藤井にはと角邪魔になり勝ちになって来た。また、私自身にして見ても、折角油の乗り出した自分の芸術家としての道はすてられなかったし、かの御前演奏の直後心に深く誓ったこともあり、どうしても人の妻君としての生活と一致しないということが深く考えられるようになった。

――いっそ別れようじゃないか。

と先ず藤井がそれをいい出したのであった。

――僕としたって、お前がこんなに偉くなることは予期していやしなかったんだ。だがどこまでも僕は女房としてお前を所有したいんだからね。それとも僕のために音楽をすててくれるかい。

――そんなことは、とても無理ですわ。

――じゃ別れるより仕方がないじゃないか。

――でも、私には、私相当に貴方にはお盡(つく)ししたつもりよ。

――それはそうだろう。だが結極、お互いに求めるところが違うんだから、別れるより仕方があるまいよ。

私も泣く泣く藤井の言葉がうなづけたので伯母の家へ帰ったのだった。

それに自分自身を生かすためにはさけられない犠牲だった。そしてお互いにたち切り難い愛着の絆をたち切ったのであった。