音楽学校の生徒には山田耕作も
私はすでに其時音楽学校の教授をしていた。其頃の私の生徒の中には、山田耕作氏や、大塚淳氏などがいた。私はまことに気の弱い先生で、これらの悪童連――後にはまことによい生徒になったが――は気の弱い私をいじめて泣かせることが何よりも楽しみだったらしい。今日も先生を泣かしてやろうじゃないかと皆で相談して私を困らせたものである。或時、とうとう私は堪(たま)り兼ねて、「皆さんは何という悪い生徒でしょう、少しも私のいうことを聞かない。私はもうこれ以上貴方方に教えようとは思わないから」といって、本当においおい泣き乍(なが)ら教員室にかけこんだものである。
さすがの生徒もこれには余程弱ったらしく、「先生これからはよい生徒になりますから」と謝りに来た。成程それからは、私にとってまことによい生徒になった。
その山田氏も随分偉くなられたものだ。私がこの一月最後の帰朝の時、マネージャーのことで少し問題が起った。私の意志で片山という年少のマネージャーを使っているのが或は山田氏の気にいらなかったのかも知れない。山田氏の配下の男をマネージャーに使うようにいわれて、其際に、何しろ自分の児分は日本中にいるから、というような話をいわれたので、
――まあ、山田さん、私は貴方からそんな御話を伺うよりも、昔のようにおのろけ話でも聞かされた方が、余程面白いわ。
といったことだった。
とにかく、私の学校での生活は、極めて平穏に過ぎて行ったが、私生活に於ては、私はまたもや一つの事件に遭遇していた。
小さい行動の一つ一つが新聞に取りあげて
藤井と私の離婚問題は、れいれいしく新聞に書きたてられて、世の批判の的になっていた。私が我がままで夫を夫として遇しないからこんな結果になったのだと見ている人達が多かったようである。とにかく何をしても、私の小さい行動の一つ一つが新聞に取りあげられるので全く私はかなわないと思っていた。
私が藤井と別れたことを知ると、また新しい求婚者達が私をとりまき初めた。その中に、三浦政太郎がいたのである。
私が、そもそも三浦政太郎と結婚したのはまことに、妙な理由からで、それは追々話すこととするが、三浦は性来非常に内気な人間で、私の遠い親戚に当っているから、藤井と結婚する前から、時々顔は合せていた。その頃から深く私のことを思っていてくれたらしいが何しろ内気なのでそんなことは色にも出さず、病気になる程お腹の中では私を恋いしたい乍ら、むざむざと藤井にとられてしまったような訳だった。
で、私が藤井と別れた時にも、一番最初に手紙をよこしたのは三浦だった。