※本稿は、評伝『古関裕而 流行作曲家と激動の昭和』(刑部芳則・著/中公新書)の一部を、再編集したものです
音楽学校で鍛えた喉は、クラシックの歌曲向け
伊藤久男は、明治43(1910)年7月7日に福島県安達郡本宮町に生まれた。大地主の実家を継ぐため、岩瀬農業学校を経て、東京農業大学に進学する。だが、声楽家になる夢を捨てられず、農大を退学し、帝国音楽学校に入学した。
同じ頃、古関裕而の妻の金子が帝国音楽学校に入学する。金子とは同じ声楽を学ぶ仲間であり、かつ古関とは同郷の出身である。しかも、伊藤は下宿が近所だったため、古関の家にはよく遊びに来たという。
伊藤の従兄弟に早稲田大学応援部の幹部であった伊藤戊(しげる)という学生がおり、古関は伊藤の下宿に行ったときに会った。そこで古関は応援歌の作曲を依頼された。そうして生まれたのが現在の早稲田大学の第一応援歌「紺碧の空」である。
伊藤は、昭和8年6月にコロムビアの専属歌手になる。音楽学校で鍛えた喉は、クラシックの歌曲向けであった。しかし、流行歌の場合は哀感や感傷的なものが受けるため、必ずしも豪快な歌い方は得策ではなかった。コロムビアは、その点を嫌厭したのかもしれない。
昭和10年8月に発売された「夕日は落ちて」(作詞・久保田宵二、作曲・江口夜詩、歌・松平晃、豆千代)の裏面は、伊藤の「別れ来て」(作詞・高橋掬太郎、作曲・原野為二)だった。このレコードは17万枚の大ヒット盤になった。だが、松平と豆千代が互いに歌う哀愁のある「夕日は落ちて」が当たったのに対し、伊藤が歌う「別れ来て」は好まれなかった。
松平晃の本名は福田恒治という。伊藤に先がけてコロムビアの専属歌手となった。明治44年に佐賀県に生まれ、佐賀中学校を卒業後、武蔵野音楽学校(現在の武蔵野音楽大学)に入学し、翌年に東京音楽学校師範科に転入した。東京音楽学校師範科在学中に、家計を助けるため流行歌レコードの吹き込みに手を出したところ、江口夜詩が作曲の「忘られぬ花」がヒットしたため、学校にばれてしまう。退学処分になった松平が専属契約を結んだのが、コロムビアだった。古関とのコンビでは「利根の舟唄」や大ヒット曲「船頭可愛いや」の裏面「沖のかもめ」を歌っている。松平の明朗で甘い歌声は、哀愁の味わいのある曲にも、テンポの速い明るい曲にも適していた。