村と村が対立しているところに出没

これまで世間にほとんど知られていなかったように、椿井政隆は謎多き人物である。正直、筆者もまだよくわかっていない部分がある。

椿井政隆は近世後期の国学者だ。史料によると、椿井流兵学のほか国学や有職故実・本草学に通じており、求めに応じて系図や縁起などを作成することがあったらしい。

「椿井文書」のなかには差出人を偽装した偽文書だけでなく、由緒書や系図・絵図の類も多く含まれる。しかも椿井政隆は、同一人物による作ではないように見せかけるため、いくつかの筆跡を使い分けている。しかも、中世の年号が記された文書を近世に写したという体裁をとることが多いため、見た目には新しいが、内容は中世のものだと信じ込まれてしまうようである。

大阪大谷大学図書館所蔵の椿井文書

 

椿井政隆は、対象となる地域で系図をいくつか手がけると、ある合戦に馳せ参じた者たちなどの人名を連ねた連名帳を作成する。その際、系図上の人名と連名帳の人名を年代的にも符合させ、相互に関係を持たせることで両者の信憑性を高めるのである。

さらに、寺社の縁起や史蹟の由緒書を作成したうえで、それらの寺社・史蹟や系図を持つ家々などを絵図のうえに集約して表現する。このようにまとめられた各地域の歴史は、興福寺の末寺リストとされる「興福寺官務牒疏」で改めて総括される。これによって、遠隔地の歴史が相互に関係するうえ、興福寺の古文書と合致するという誤解もなされ、さらなる信頼を得てしまうのである。

このように、椿井政隆はあらゆるジャンルの史料を複雑に関係づけることで、偽文書に信憑性を帯びさせていたのであった。しかも、椿井政隆は村と村が対立しているところに出没し、論争を有利に導くような偽文書を作成することで村々の欲求に応えていた。これも、椿井文書が受け入れられてしまう理由の一つだ。