子供たちが地元の歴史に関心を持つことのほうが大事?
最近は、直接的に「役に立たない」と思われている人文系の学問が、社会的にも軽視される傾向にある。反面、歴史を観光や教育に積極的に活用しようという動きは、活発になる一方である。このような社会状況と偽史の受容は、必ずしも無関係とは思えない。筆者の経験ばかりで申し訳ないが、その一例を紹介しておく。
市制60周年記念の一環で、枚方市教育委員会が2008年に発行した小学生向けの副読本『発進!!タイムマシンひらかた号』には、アテルイの首塚や七夕伝説、そして王仁(わに)墓に関する椿井文書なども登場する。枚方市役所では、歴史的な内容の記述がある場合は、市史資料室がチェックする習わしになっていたので、筆者も立場上、この冊子について不適格な記述は全て書き換えるよう要望した。
すると、編集を担当した指導主事は、「史実でなくてもいいから、子供たちが地元の歴史に関心を持つことのほうが大事」とこの冊子の編集方針を明言した。怒りは覚えたものの、正直なところをいうと驚きはあまりなかった。なぜなら、これはほんの一例で、何度も同じような苦い思いをしていたからである。
チェックして、それが無視されて、市史資料室のお墨付きがついたというかたちで世に出ていく。これが繰り返されると、さすがに自身の無力さが情けなくなるとともに、こういう思いをしなくてもよいようにするためには何をすべきかと真面目に考えるようになる。その結果、偽史の研究に積極的な意義を見出すようになった。
椿井文書と出会って以来、このような経験を積み重ねてきたこともあって、これからの歴史学のありかたについても、筆者なりに考えてきたつもりである。
行政に歯止めをかけようとする愚直な研究者もいることを、世間の方々には知っておいていただきたい。筆者の仕事をみて、歴史学は世の中に必要だと感じていただければ、なおありがたい。なぜなら、筆者は歴史学の必要性をわかりやすく説明するために、偽史の研究に取り組んできたからである。その取り組みが是と認められるならば、偽史はただ黙殺するだけの対象ではなく、価値ある研究対象へと評価も改まるであろう。