2003年、エレベーターガールとして就職できず、自宅公団住宅で勝手にエレベーターガールをしている、という設定。カレンダー撮影の際の1枚(写真提供◎青木さん)
「47歳、おんな、今日のところは「……」として」ーー。青木さやかさんが、47歳の今だからこそ綴れるエッセイ。母との関係についてふれた第1回「大嫌いだった母が遺した、手紙の中身」が話題になりました。第2回は「〈女芸人〉として・前編」です。

同棲相手に逃げられ、ギャンブルの道へ

「どこ見てんのよ!」というギャグがとても流行ったのが2003年。男性芸能人の目線が胸元に来てると気づき、(相手は見ていない)胸元を手で隠しながら大声で叫ぶ、というもので、自意識過剰で被害妄想が強く、男性のセクシャルな言動が異常に苦手だった私にはピッタリの心の叫びでもあった。心が伴っていたからなのか、それはそれは流行り、年末の紅白歌合戦に赤組応援としてよんでいただいた。白組の応援はその年の顔、波田陽区だった。

『エンタの神様』や『笑っていいとも!』そして『ロンドンハーツ』で有名になっていく。

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私は26歳で彼氏と上京し、中野に住んだ。うなぎの寝床タイプの2Kの部屋で初めての同棲。おままごとみたいでワクワクした。テレビに出られなかったら結婚すればいいやと思っていた同棲相手に逃げられ、これは後がないぞとなったときにはギャンブルで100万をこえる借金を背負っていた。それからは、こちらの消費者金融さんで借りては、あちらの消費者金融さんで返してという、自転車操業の何年かを過ごすことになる。もはや私の何を売ったって、返せるあてがない。

周りにいるのは、高円寺の雀荘で寝泊まりしているフルネームを教えてくれないおじさんや、「人を殺したことがあるわ」と呟きながら牌を捨てる自称女社長や、小さなライブに出ながらくだを巻いてる芸人さんたちしかいなくて、私は、テレビに出て売れるしか道はない……となる。

NHKの「爆笑オンエアバトル」というネタ番組にチラホラ出始めたとき、ワタナベエンターテインメントのお笑いライブにゲストでよんでいただいた。そこでたまたまネタをみていた事務所の女社長に「よかったらうちにきませんか?」と声をかけられ、数ヵ月後に所属することになる。